西暦400年前後というのは、古代史のクロスロードになっている。

1.朝鮮半島における高句麗対4国連合の戦いはその頃最も厳しかった。

4カ国とは百済・新羅・任那・倭国である。この中で倭国をどう性格づけるかが最大の焦点である。

これについては、中国情報が途絶えた時期なだけに、好太王の碑をどう読むかしかないが、

アマテラス系天孫族の出自(高天原))は任那であり、九州はその植民地であったと思う。しかし両者の比重が変わり、すでに魏志倭人伝では別個の国と認識されている。

しかし対馬海峡を挟んで両者の一体意識はずっと後まで残っている。それはノルマンジーに対するイングランドの領土意識と似ている。それが高句麗戦争を招いたのだろうと思う。

2.一方で九州王朝の後背地では畿内を中心に農業革命が起こり、巨大な生産力と急増した人口を背景に大和政権が版図を拡大した。

大和政権は九州王朝の流れを汲む地方政権であったが、やがて本州の西端までその支配下に収めた。その一部は豊後から日向にまで進出する。

大和政権の諸国制圧は、ヤマトタケルの伝説を見ても決して平和的なものではなかった。しかしその農業革命は積極的に受け入れられた可能性がある。

3.崇神系の最後の王であった仲哀はみずから九州王朝の都である博多に乗り込んだ。おそらく彼は臣下の礼を尽くしたと思われるが、朝鮮出兵の要請は拒否した。

その結果仲哀はおそらく暗殺され、その愛妾の神功皇后とその息子を押し立てた九州王朝軍が大和に向かった。

仲哀の息子たちは九州王朝の受け入れを拒否し戦ったが全滅した。征服軍の将軍であった大伴氏が畿内政権の実権を握り、崇神朝のもとで冷や飯を食わされた物部氏と結んで威勢を張った。

御用済みとなった武内宿禰はお払い箱となった。大和盆地に代わって河内湖を囲む一帯が新政権の経済活動の中心となった。そこには九州王朝を通じて鉄器、朝鮮半島の事物が奔流のように流れ込んだ。しかし九州王朝は本格的な植民地経営をする気はない。あくまでも朝鮮戦争のためのロジスティックな後背地の確保だ。だからいずれは破綻するだろうし、実際に破綻した。

これが二つの王朝の出逢いとその顛末だ。

ここまでは確認できるのではないだろうか。

そしてその結果、畿内政権がどのような変貌を遂げるのか。このあたりが見どころだ。これから勉強しなくてはならない。