「古墳は灌漑事業の残土処理にすぎない」というのは、私の「大発見」かと思ったが、調べてみると同じような考えの人がいるということがわかった。

いささかしゅんとしている。

それらの文献を当たってみた。

関東の前期古墳 - 東海大学文学部

著者は北條芳隆(東海大学文学部歴史学科)さん。

まず最初に以下の断りが入る。

私の見解は当面のところほとんど孤立的であり、いわゆる定説とは大きく異なる。

ということで本文へ。

この時代には集団移住や大規模耕地開拓が各地で活発におこなわれた。古墳時代の地域首長は灌漑・農耕技術を携えた開発指導者でもあった。

古市古墳群では古市大溝の掘削年代が5世紀にさかのぼる。遺存条里地割と前方後円墳の主軸方位が一致していることから、古墳群建設には方格地割りにもとづく耕地開発が伴ったことを示す。纏向も同断である。

各地の耕地開拓は、奈良盆地での成功例を基礎に、それを模倣し同形的に拡散させるものでもあった。

考察部分では次の記述が注目される。

弥生時代後期に、各地でどの程度の鉄器が出土するかをみた。一定量の鉄器の出土がある地帯は、確固たる地域社会が成立していたと考えられる。

しかし大型前方後円(方)墳が築かれるのは、むしろ鉄器化の恩恵に浴さず未開発で、「無住の地」が広がっていた場所であった。

倭王権の本拠地である奈良盆地自体、弥生時代までは道具の鉄器化という点でまったくの後進地であった。

このことは、社会経済的な発展段階と古墳の規模との間に照応関係がないことを示唆する。


ということで、私よりはるかに実証的に論じられている。

ほかに随想風の文章が二つある。ちょっと困ったことに内容が酷似しているのだ。

グーグル検索でトップに来るのが 巨大古墳は公共工事の跡!?というブログ記事。越智社長さんの「おちゃめ日記」で2014/07/18 の日付がある。

古墳がいったい何のために作られたのかと言えば、ズバリ「水田開墾のための土木工事のため」だったのではないでしょうか。

昔はダンプカーなんてありませんから、開墾地のすぐ近くに計画的に盛り土することにより廃棄処理をすることになります。その時にちょっとした遊び心が芽生えて、円墳や方墳、八角墳や前方後円墳といったその時の流行に合わせて様々な形状に盛ってみた。これが今の時代まで残り、『古墳』と呼ばれるものになったのではないでしょうか。

…仁徳天皇は広く知られている「竈(かまど)のお話」の天皇というよりも、むしろ「土木天皇」と言ってもいいくらい、民のために広大な土木事業を営んだ天皇、「偉大なプロジェクトリーダー」だったということのようです。

…『古墳』を単純に権力者の墓だとする先入観がそれ以上の思考を停止させているように思います。

次が「ねづさんのひとりごと」というブログの「古墳のお話」という記事(2015年07月10日および2016年03月13日)で細かい所の表現の違いはあるが、骨組みはほぼ同じだ。ねづさんのブログには仁徳天皇陵に関する大切なお話 (2014/10/24) という記事もあり、ほぼ同様の内容となっている。

次に「るいネット」に「“日本の古墳は権力の象徴ではなく、開墾の残土の盛り土であった”は、戦前の常識であった」という記事があるが、これはねづさんの記事のコピペのようだ。

それで4番目に引っかかったのがmixiユーザーさんの「パクリ? 古墳は公共事業である説」という記事で、「一体どちらが元ネタなのか? それともどこかに元ネタがあるのか?」と嘆いている。

私の疑問とそっくり同じ。なまじグーグルで1番と2番で引っかかっちゃうから困るんだよね。

次が「古墳は土石流対策の灌漑施設?」という記事。純丘曜彰 教授博士 大阪芸術大学 哲学教授 という肩書が怪しげだが、ウィキにはしっかり名前が掲載されている。五輪オリンピックのエンブレム問題で「論客」として名を馳せたらしい。

土石流対策への思いはなみなみならぬものがあるが、「だから何さ」という気がしないでもない。肝心なポイントは越智社長さんの言葉に尽くされているようだ。