ヤマト王権の成立に至る経過を5期に分けて考える

纏向古墳の発見に伴い、箸墓古墳とプレ箸墓古墳の性格付けが再び議論されるようになっている。

私は、古墳というのは残土処理に副産物くらいに考えている。古墳の大きさは灌漑工事の大きさを示しているにすぎないと思っている。

私には青銅器、鉄器(武器)があれば十分だ。それに灌漑施設の遺構だ。

弥生文明は青銅器時代であり、長江文明の流れをくむ銅鐸文化だ。鉄はない。

それらに先行する縄文人は、元来は青銅器もない。

1.縄文人の時代

大和・河内地方には縄文人(D系)が先住していた。数は少ないとはいえ漁労を中心に集団生活を営んでいた。

晩期縄文時代には半島からの移住者(C系)が入る。彼らは九州北部から瀬戸内海に拡散し、漁労を生業としつつも、海の民として半島と交流しプレ弥生文化を持ち込んだ。

2.弥生人の時代

半島南部に住んでいた長江人は北からの民族に押され九州に移住するようになる。

当初は、晩期縄文人に庇護されながら水稲耕作を拡大する。後には縄文人を数において圧倒するようになる。しかし敵対関係にはなく共生関係を形成した。

ここまではY染色体で説明できる。

文化では縄文文化を圧倒して青銅器文化=銅鐸文化が支配するようになる。

銅鐸文化は発生地である九州から東進するにつれ発達し、大型銅鐸が中国・近畿・東海へと広がった。

3.天孫人の時代

天孫人は満州南部に起源を持つ漢人系の民族である。次第に半島南部へと進出し、晩期縄文人系と長江人系の人々を圧迫し支配するようになった。

彼らはまた、楽浪に進出した漢帝国の軍勢に圧迫され、南方に新天地をもとめるようになった。

この内、小白山付近の「高天原」から一方(アマテラス系)は馬韓経由で九州北部へ進出し、他方(スサノオ系)は辰韓経由で山陰に進出した。

彼らは挙家移民ではなく軍事組織(最初は雇い兵、後に支配者)として日本に渡った。彼らは先住弥生人を排除せず、猟色の対象とした(ヤマトにおける大物主を、あるいは神武を見よ)

これもまたY染色体で説明できる。

4.スサノオ系の大和への進出

紀元前後、アマテラス系(天津神)が九州北部に倭王朝を形成した。そしてスサノオ系への圧力を強めた、スサノオ系(事代主あるいは大物主)は出雲を出て、備前→播磨を経由して、河内・大和→纏向に入った。

備前で大規模新田開発に当たったスサノオ系は、そのノウハウを活かし大和でも灌漑事業にあたった。

それは武力を持って弥生人(銅鐸人)を支配し、使役する形態であった。纏向から銅鐸圏各地の土器が発掘されるのはそのためであろう。

紀元200年から250年にかけて銅鐸が一挙に廃棄されるのも、天孫系信仰の押しつけの表れと見るべきであろう。

これらは考古学的に証明されている。

5.若狭系王朝の成立

纏向に始まり河内・大和を一大王国としたのは事代主を始祖とするスサノオ系であった。葛城と物部の連合といわれるが、纏向には別系統(事代主直系?)の権力があったのかもしれない。

350年ころに纏向王朝は滅び、纏向という「都市」は消滅した。おそらくこれに代わる形で崇神王朝が誕生したと思われる。

崇神王朝の出自が敦賀にあることが各種の史料から推測される。敦賀の勢力の由来は不明であるが、スサノオ系と言うよりは直接新羅からの渡来民であった可能性も否定できない。

敦賀系は尾張、伊勢、近江にも分布しており、崇神王朝最後の仲哀天皇の妻神功皇后も敦賀の出とされる。仲哀の息子も戦いに敗れ敦賀を指して逃走中に大津近くで殺されている。

6世紀に長期の混乱を収めた継体天皇も越前の出身であった。7世紀に東国の民に依拠して天皇家を滅亡させた天武天皇も越前系であった。

補)神武東征

もし実在したとすると、それは纏向王朝が登場する250年から350年の滅亡に至るまでの何処かである。

神武は大和・河内連合王国を征服はしたものの、その説話を除けばなにも形あるものは残していない。天津神系であるにも関わらず、天皇家公認の「古事記」や「日本書紀」は出雲神話の骨格が色濃く残されている。

欠史八代は、妻の出自を見ればわかるように、実体としては葛城政権である。河内の物部は長脛彦の死にも関わらず欠史八代を生き抜いて、最大軍閥に成長する。

要するに大和王朝は、表面だけは倭王朝に恭順しながら、その実はスサノオ系の伝統(隠れ新羅派)を守り抜いているのである。


どうですか、古墳など関係なしにヤマトの古代史は書けるんですよね。この辺は日本古代史の本よりイギリス古代史のほうがよほど参考になります。