離乳というのがよく分からない。

子供の問題にも関わるし、母体の問題にも関わる。

この問題は育児・子供の成長の問題として語られることが多い。しかし私としては、離乳をふくむ育児という実践は、基本的には母親側の問題だと思う。

女性は、あたり前のことだが、母性である前に女性である。子供を産むことによって初めて母性となる。

子供が成長するように、女性も母親として成長しなければならない。スキンシップを主体とする母性から、見守りを主体とする母性へと育っていかなければならない。

離乳はその重要な過程の一つとして考えるべきだ。

ここまでは多分議論の余地のないところと思うが、問題は母乳を母性の絶対的内容として主張する昨今の風潮だ。どうもこれが問題を複雑にしている気がしてならない。

母乳がベターであることは言うまでも無いし、あえてベストと言ってもよい。しかしオンリーではないはずだ。私はたぶんほぼ母乳なしに育っている。70を過ぎて人並みに暮らしている。タバコさえ吸わなければもっと元気だろうが、これは私の死神との取引だ。

母親が母乳が出なかったことに対し文句を言う気はサラサラないし、むしろ母乳なしでここまで育ててくれたことに感謝している。

そういうのが根っこにあるせいか、1歳半を過ぎてまだ授乳をしている母親に対して、イラッと来てしまう。

「いまはもう、あなたの体のほうがだいじですよ。母性の示し方が違うでしょう。けじめを付けなさい」


この文章を思いついたのは、赤旗の文化面に載った「文化時評」の、あるところが気になったからである。

山崎ナオコーラ「父乳の夢」の紹介の所を引用する。

現在乳児を育てている著者の「母ではなく親になる」という決意が込められ、ユーモアに満ちていて小気味よい。

一般論や雰囲気を「信じるな」が口癖の今日子と、手ずから子育てをしたい哲夫。生後間もない薫への授乳をめぐって、時に行き違う。

母乳絶対の風潮に流されがちな哲夫に対して、無理してまで母乳に固執したくないと考える今日子は、「そんなに母乳が好きなら、哲夫が母乳を出したら良い」と言い放つ。

社会の成熟に伴って体も進化したらしい哲夫からは、溢れんばかりの母乳、もとい、父乳が出てきて…。

あらゆる先入観と決めつけを排し、多様性の尊重をテーマにしてきた著者が、性別役割分業と母乳神話を暴いた快作である。

と、これだけでも名文である。

なお、ついでだが、その記事の隣、「歌壇」にも女性が自分を「僕」と呼び、歌を詠む最近の動向が触れられていて、その例としてあげた歌がなかなかいい。筆者は沖ななもさんという歌人。

目があって
君を見てたと気づく僕
君のうしろに 輝く青空
(中学生 伊藤麻衣)


噴水が
上へ上へと登っていく
夢へと進む 僕らのように
(中学生 石川玲奈)


満月の
明かりたよりにすぶりする
次こそきっと ヒットを打つぞ
(小学生 斎藤歩和)

これらは千葉県山武市主催の「左千夫短歌大会」に応募したものだそうだ。山武市というのは知らなかったが、「野菊の墓」の舞台なのだろうか。

女性と母性の問題はこれからも学んでいく必要がありそうだ。