実は小沼さんの文章に注目したのは、あまり本筋ではないところにある。それは次の一節だ。

日本学術会議も加入しているICSU(国際科学会議)は、65年に「ICSUとその傘下組織はいかなる目的であっても、国家のいかなる軍事組織からも、資金を受け入れ、あるいは仲介すべきではない」と、申し合わせをしています。

私が学術会議の倉庫から掘り起こしたICSUの資料によれば、この申し合わせの提案者は日本学術会議であり、物理学者の藤岡由夫が出席して提案したのでした。

と、思わぬところから藤岡由夫の名が飛び出した。

失礼ながら、藤岡由夫が進歩的陣営の一員だったという記憶はない。そこで藤岡由夫の略歴を探し出した。

日本理学会(JPS)雑誌の「談話室」という読み物欄に、瀬谷正男さんの「藤岡由夫先生のこと」という追悼文が載せられている。

おそらく藤岡が76年に亡くなって、間もなくのものと思われる。

25年(大正14)に東大理学部物理学科を卒業。すぐ理研に入り、分光学を専攻した。29年にヨーロッパにわたりオランダとライプツィヒで分光学を深めた。

34年(昭和9)に帰朝し、東京文理大の助教授を兼務するようになった。核物理学の研究に手を染めるようになったのはこれ以降のことらしい。

45年に戦争が終わると、彼は思わぬことをはじめる。模造真珠の開発と赤外分光光度計の製造である。

模造真珠は従来魚の鱗から製造していたものであるが無機物から製造できる ようになり模造真珠工業は非常な発展を遂げ一時は雑貨輸出の第一位を占めるようになり,外貨獲得に大きな貢献をした.

赤外分光光度計は専ら輸入に頼っていたものであるが、光研にて製作技術を完成してからは、輸入を防遏し得たのみでなく輸出されるようにすらなってきた.

なぜこのような商売を始めたか。瀬谷さんはこう書いている。

国民を飢餓から救うには、食糧を輸入するための外貨を獲得しなければならぬ.科学者にできることは、産業と深いつながりのある研究所を創設し,科学者に相応しい輸出用製品の製造抜術を確立することである。

49年 藤岡は創設されたばかりの学術会議会員になった。間を挟みつつ65年まで務めている。先程話題となったICSU申し合わせは65年(昭和40)とされており、彼の任期の最後に当たる。

53年 学術会議会員の任期中に、藤岡は学術会議原子力特別委員会の議長を務めた。

当時世間・一般の空気は原子兵器と関係のある原子エネルギーの研究には批判的であったが、政府は原子炉予算を閣議決定した.
科学者の間からは様々な意見がだされ議論は沸騰した。
このとき藤岡先生ば政府と学者の問に立って非常な努力を重ねられ、原子力平和利用三原則を確立することによりこの難局を切り抜けられた.

ということで、なかなかの政治家であるが、「平和利用三原則」は原発推進派の言葉上のエクスキューズとして挿入されたかのようなニュアンスも、瀬谷さんの文章からは伝わってくる。

伏見康治さんは中曽根・正力のための「いちじくの葉」であり、「原子力にシロウトの年寄り教授たち」と酷評している。(自らも池田大作のいちじくの葉になったんだが、晩節は全うした)

それが、今回の小沼さんの「発見」である程度、藤岡さんの名誉が回復されたような気もする。