本日の赤旗文化面には小沼通二さんが登場し、インタビューに答えている。

小沼さんと言っても話は通じないかもしれない。31年生まれの物理学者で、物理学会の会長も務めている。現在も世界平和アピール七人委員会の委員を務められている。

話を簡単にまとめると、

学術会議の前身である「学術研究会議」が戦争に協力し、深く関与した歴史があり、戦後はその反省から「学術会議」が組織された。

その「設立の誓い」は振り返るに値する。

そこにはこう書かれている。

これまで我が国の科学者がとり来たった態度について強く反省し、…我が国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う。

45年に国連が結成され、紛争の平和的解決を原則とした。冷戦が始まった48年、ユネスコに結集した8人の社会科学者が、「戦争はやめられる」という声明を出した。

これを日本の科学者50余人が熱心に分析し、翌年の49年、戦争を完全否定した「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」を出した。

ほかにも、物理や地質学など、さまざまな学会や研究グループが平和声明を出した。

戦争はついこの間のことで、反省は多くの人にとって具体的経験と感覚に基づくものだった。

こうした動きを汲み取る形で、49年の日本学術会議の設立と「設立の誓い」、50年の「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない声明」が出来上がった。

ということで、大変に格調の高いお話だ。


この記事で私が注目したのは、まず平和反戦ということでの広範な科学者の決意である。

以前、「武谷光男が親ソ・親中の立場から核開発を推進しようとした」という批判に、検討を加えたことがある。

たしかに武谷が戦後の初期に核の平和利用の推進論者であったことを否定はできない。しかしそのことをもって反戦平和の戦闘的実践者であった事実をチャラにすることはできない。

批判者にもしそういう底意があるのなら、それは戦後の反戦平和運動への侮辱になりかねないと思う。

そこにはまず平和運動があり、核兵器への警戒感は薄かった。今日我々が考えるように反戦と反核はイコールのものではなかった。また、アインシュタインら進歩的な科学者が反ファシズムの立場から核兵器の開発を促し、協力さえしたという事実が、反核の意見をためらわせた可能性も否定できない。

しかしそれ以上に彼らは熱烈な平和愛好家だった。だからこそ、その後の動きの中で急速に態度を明らかにし、反核・反戦・平和の一体となった闘いに立ち上がっていくことになるのではないか。

それが50年代前半の動きだ。詳細は年表を参照いただきたい。ただし本家の日本共産党は6全協以降の再建過程で、(一時的ではあるが)明らかにこの到達点から退歩を示している。そして武谷はそういう共産党から徐々に距離を置くようになっていく。


反核と反戦平和の課題を分けて論じるのは、我々の核兵器特殊論の最後の残渣かもしれない。

通常兵器(大量破壊兵器)と核兵器は区別して考えなければならない。それはいままでもそうだったし、これからも間違いなくそうであろう。

ただ運動論としては反戦平和運動と本質的に変わるところはない。通常兵器も核兵器も同じように、究極的には廃棄されるべきものだ。ただ緊急性においてははるかに異なっているわけで、そのために各論的には形態の違いが出てくる。

通常戦争については反対しない人であっても、その緊急性に鑑みて「共闘」することは大いに有り得るし、現にそういう形で運動は進んできた。

同じことは核の軍事使用と平和利用の関係についても言える。福島の原発事故で反核運動家は衝撃を受けた。

「平和利用については安全面で許容できるものなら容認する」という従来の考えは70年代のスリーマイル、80年代のチェルノブイリで根本的変更をせまられた。また、その出自から言って「純粋な平和利用などありえない」ことについての認識も深まっていた。

つまり実質的には「平和利用をふくめすべての(純粋研究目的以外の)核の使用反対」の立場に移ってきてはいたのだが、「平和利用容認論」を面と向かって、自己批判もふくめて否認したことはなかった。

とくに歴史的に遡って、「なぜ」の問題をふくめての自己批判は未だ行われていないように思える。

この問題での真摯な取り組みが必要ではないだろうか。