2013年03月28日 を増補しました。
赤いウィーンに暮らし、元ハンガリー共産党員で熱烈な活動家である女性を妻としたことで、かなりマルクス主義に接近したこ とは間違いありませんが、中核的な信念としては一種のサンディカリズムに立脚していたように思えます。

私が思うに、この時代のウィーンの左翼は反動派経済学者の「価格転形過程」論にかなり参っていたのではないでしょうか。バウアーもヒルファーディングもこれをうまく突破できていないように思えます。

物質的富というのは具体的有用性においても規定されるし、抽象的な労働生産物としても規定されます。しかしそれはいずれも富の素材的(即自的)規定でしかありません。富は目的として、あるいは手段として対自的にも規定されなければなりません。
富は欲望の物質化(対象化)されたものとして、あらためて措定されなければなりません。マルクスは「経済学批判」では繰り返し欲望の再生産と、物質的富の再生産の照応を語っています。その上で物質的富の源泉について語りますが、それは経済活動という人間的活動の片面でしかありません。

富を消費し、欲望を生産する、もう一つの人間的活動=文化活動がその先に語られなければ、人間的活動の円環は閉じないのです。

マルクスはこの問題を先送りしました。資本論全三部では終わらせられない、もう片側の議論を持ち越しにしました。持ち越しにしただけではなく、ひょっとするといつのまにか等閑視するようになっていたのかもしれません。

「経済学批判」(とくに「要綱」)から「資本論」(とくに「賃金・価格・利潤」)への流れを見ていくと、「労働力」が人間的能力(Arbeits -Vermehrung)の表れとしての労働能力の疎外された姿だという観点が徐々に薄れていくような感じがします。

「価値の価格への転形」は、経済活動として見ただけでは不完全な把握にとどまるでしょう。目下のところ上手く言えないのですが、それは文化活動の開始点としても見ていかなければならないのではないでしょうか。

購買行動を起点とする消費活動は社会的文化活動でもあります。“もの”として凝縮されたエネルギーがその具体的有用性を発揮し、それを生きとし生けるものとしての人間が受け取り、みずからを生物的制約から解放し、より人間的に文化的に発展していくこと、それこそが消費活動です。

この辺がこれからの理論課題なのだろうと思いますが、ポラニーは「多ウクラードの併存」、あるいは「社会の多元性」という形で、形而上学的な乗り切りを図りました。これは一種の問題回避であり「政治的解決」です。