本日の赤旗文芸欄は萩原朔太郎の評論である。

なんでこんな男を赤旗で取り上げなけりゃならないのか、不思議である。

基本的には金持ちの道楽息子で、生活能力がからっきしないから詩人にしかなれなくて、それがたまたまうまく行ってしまった、だけの話ではないか。

だから中身はなんにもない。表現の鮮やかさが人目を引くだけだ。優しさとか、逆に憤りとか、生身の人間が社会との関わりの中で持つ感情がすっぽり欠落している。

彼はまず何よりも評論家であり、それも中身に対する評論でなくそのファッションに関する評論家である。

評論をやっているうちに、そこそこに技法を学び、自分でも書いてみたら存外に評判をとってしまった。

というのが私の萩原朔太郎観であるが、やはりこのようなレッテル貼り、外在的批判は大方のひんしゅくを買うだろうから、すこし青空文庫で「月に吠える」を読むことにしよう。


かなしい遠景
かなしい薄暮になれば、
労働者にて東京市中が満員なり、
それらの憔悴した帽子のかげが、
市街(まち)中いちめんにひろがり、
…なやましい薄暮のかげで、
しなびきつた心臓がシャベルを光らしてゐる。

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。
…犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

田舎を恐る
わたしは田舎をおそれる、
…くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
…土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
…田舎の空気は陰鬱で重くるしい、
田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。
わたしは田舎をおそれる、

かろうじてこれだけ拾い上げた。一言で言えば、「冬の時代」に咲いた東京モダンのあだ花だ。J-ポップのプロモーションビデオを見ている気分。情景は背景にすぎない。

酒精中毒者の死」、「蛙の死」は愚劣で不愉快な詩だ。
何かデジャブーを感じた。
これである。
番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。