テロリストという言い方にはいつも抵抗がある。
善悪は別として少なくとも白色テロと赤色テロ、あるいは黒色テロとは区別する必要がある。白色テロは権力の弾圧の一環であり、いかなる意味においても糾弾の対象である。黒色テロはテロリズム思想の発露であり、無政府主義の一部を形成している。これについては個別に議論しなければならない。赤色テロは本来ありえない概念であるが、実際には存在する。
狭義のテロは、どの形態においては「暗殺」とほぼ同義である。大変グレーゾーンの広い領域であるが、「窮鼠ネコをかむ」行為であることにおいて共通する。問題はそのテロリストが「窮鼠」であったかによる。
いずれにしても、ここまでが本来の古典的なテロの範疇である。それは法治国家においては明確に刑法上の犯罪を構成する。あとはどのくらい情状酌量の余地があるかということだけだ。
かつてテロリストはいくばくかの美意識を持って語られていた。「弱者の英雄」としての側面を持っていた。テロで歴史が変わるものでは決してないが、「及ばずともせめて一太刀」の思いが感じられた。
秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻は、「壮士ひとたび去ってまた還らず」と歌った。2千有余年を経て、未だに英雄である。
兵営の襲撃に失敗したカストロは、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と叫んだ。
「われは知る、テロリストの かなしき心を」の石川啄木についてはいずれ、もう少し調べてから論及したい。

4つめがいま流行りの「テロもどき」である。
この「テロもどき」には2つの特徴がある。ひとつは命をかけるに値するターゲットがないこと、したがって大義がないことである。大量・無差別で、実行犯の倫理性とか思想性がまったく感じられない。
二つ目にはイサギがない事である。「自爆」テロと言うが、自爆するのはテロリストではなくその手下だ。特攻隊で突っ込んでいったのは特攻の指揮者ではない。女子供を騙しこんで自爆させる卑劣な手口には憎しみしか感じない。口先で何を言おうと、それはただの「臆病な愉快犯」だ。