昨日書いた記事を訂正しなくてはならない。

リヒターはバッハのチェンバロ協奏曲をたった一度しか録音していないようだ。そしてアルヒーヴで発売されたのは7つの協奏曲と2台の協奏曲の1,2番だということだ。

そしてチェンバロの音がやや引っ込み過ぎというのも、すべての録音に共通しているようだ。つまりニコニコにアップされた音は多少お化粧していた可能性があるということだ。(久しぶりにニコニコを訪ねたが、もう削除済みだった)

厚く整った弦楽、足元を固めて行くようなバス・パート、そこに音量は小さいがカリっと明瞭に浮かぶチェンバロ、作品の魅力をくっきり聴かせてくれます。リヒターの演奏とアルヒーフの録音技術も車の両輪の関係でしょうね。(Micha クラシックとリュートの楽しみより)

うーむ、そうか。“カリッと明瞭に浮かび”上がってこないのは、私の耳のせいでしょうかね。この間高音域聴力を調べたら、まったく聞こえず、愕然としたばかり)

すこしこの録音について情報を集めておこう。


1.なぜチェンバロ協奏曲と呼ぶのか

大変お恥ずかしい話だが、いままでクラヴィアとチェンバロの違いがわからなかった。むかしはクラヴィア協奏曲と言ったような気もする。

同じ楽器を演奏しているのに、片方では平均律クラヴィア曲集だし、片方ではチェンバロ協奏曲だ。なぜなんだというと、意外とみんな微妙に勘所を外して答えてくれる。

いろいろな文章を読んで、今のところ「こうだ」というポイントを書いておく。

2.クラヴィアは非営業の鍵盤楽器

まずクラヴィアというのは鍵盤楽器のことだ。ただしオルガンは除く。バッハの主な仕事はオルガン弾きだった。だからバッハの場合は、もともとは本業以外の内輪の鍵盤楽器という意味がふくまれる。ここが一つのポイント。

3.クラヴィアには2種類ある

これが話をややこしくしている原因である。

一つはおなじみのチェンバロであり、もう一つがクラヴィコードという楽器である(他にLauten-Clavicymbelというのもあったらしい)。見た目は似ているが音を出す原理はだいぶ違う。

チェンバロは弦をはじいて音を出すからハープの親戚である。クラヴィコードは弦を叩いて音をだすので、強いて言えばツィンバロンの親戚筋に当たる。

バッハはクラヴィコードを自家用に愛用していたらしい。きっと作曲の作業のときはクラヴィコードを使っていたのではないだろうか。

だから独奏用の曲はすべてクラヴィア曲となっている。平均律は原語では“Das Wohltemperirte Clavier”となる。「クラヴィコードで作ったんだけど、チェンバロで演奏してもいいよ」てな感じで、クラヴィア曲と名付けたのではないかと想像する。

4.英語だと分かりやすい

ウィキの英語版を見るとクラヴィア曲ではなくキーボード曲と表現されている(もちろんクラヴィア曲という人もいる)。身も蓋もない表現だが、分かりやすい。「所詮それだけのことよ」と突き放した感じが気持ち良い。ドイツ語だとKlavierwerke – BWV 772–994

5.なぜチェンバロ協奏曲なのか

いまや日本ではチェンバロ協奏曲と呼ばなければならない雰囲気になっている。しかしクラヴィア協奏曲と呼んではいけないのか。答は「いいんだよ、なんと呼んでも」ということだ。

実際にキーボード協奏曲と書いてあるのもある。ペライアのCDのタイトルはそうなっている。リヒターが55年にアメリカで演奏会を開いたときの録音がプレミアLPで出ていて、そのタイトルもクラヴィア協奏曲となっている。

ちなみにドイツ語版ウィキでは“Sonaten mit Cembalo oder Continuo, BWV 1014–1040”だ。

なお、蛇足ではあるが、


チェンバロ cembaloはイタリア語。正式にはクラヴィチェンバロclavicembalo という。 英語ではハープシコード harpsichord(竪琴+弦)、 フランス語ではクラブサン clavecinです。
即ち、チェンバロ cembalo = ハープシコード harpsichord = クラブサン clavecin

ハープシコードとクラヴィコードとチェンバロとクラヴィーアの違いは何?より引用。)

6.にもかかわらず、チェンバロ協奏曲なのだ

本当は5.まで書いておけば良いのだが、ついでに言っておくと、協奏曲が弾けるキーボードはチェンバロしかないのだ。だからチェンバロ協奏曲なのだ。

クラヴィコードではとても弦合奏に太刀打ちできない。あまりにもか弱い音なのだからしょうがない。

ではチェンバロなら良いかというと、それでも足りない。埋もれてしまう。

それをなんとかしようと工夫して作ったのがバッハのチェンバロ協奏曲ということになる。言ってみればロドリーゴのアランフェス協奏曲みたいなものだろうと思う。このひ弱な楽器をいかにフューチャーしながら曲として面白いものに仕上げていくかという苦労は買わなくてはいけないだろう。

かくしてバッハは世界初のチェンバロ協奏曲の作者として名を馳せることになる。

7.バッハはどこまで本気だったのか

蛇足も良いところだが、さらに書き連ねる。

2台、3台、4台までふくめてずいぶんたくさんのチェンバロ協奏曲を書いたものだが、バッハはどこまで本気だったのだろうかとふと思ってしまう。

そもそもこれらの曲は余技だった。ライプツィヒの聖トマス教会のオルガン奏者を務める一方、休みの日にはアマチュア楽団の演奏を楽しんだ。それがけっこう人気になってしまうと楽団に曲を提供するようになる。その殆どは旧作に手を入れでっち上げた曲だ。3,4,6番などは原曲に比べれば明らかに手抜き工事だ。

バッハは、ライプツィヒのアマチュア楽団(コレギウム・ムジクム)の指導と指揮活動を1729年から1741年まで務めています。

一連のチェンバロ協奏曲は、すべてこの楽団のために書かれたものです。
…そのほとんどがオリジナルではなくて、自作または、他の作曲家の作品(多くがバイオリン)を編曲したものなのです。(クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Labelより)

おそらく、バッハは音楽が教会からサロンへと進出していく、その端境期に生きたのではないだろうか。朝は協会に行ってオルガンを弾いて業務をこなす。その後は家に帰ってクラヴィコードを相手に曲作り、という日課の中にサロンでの音楽シーンが付け加えられた。やがて世俗の仕事のほうが本業より忙しくなる。サロン音楽の必須のアイテムがチェンバロだったとすれば否応なしにチェンバロに取り組まざるをえない。

サロンという空間で、10人程度の弦合奏が相手であればなんとか太刀打ちできるだけの音量が期待できるからである。

とりあえず、このくらいで