ピューリタン革命の経過についてよくまとまった文献があるので紹介しておく。

石井裕二さんの「イングランド・ピューリタン派の『信仰告白』について」という論文。「キリスト教研究」という雑誌の第48巻第1号に掲載されたもののようである。

副題が「『ウェストミンスター信仰告白』、『サヴォイ宣言』、『第二ロンドン信仰告白』の概観」となっており、新教内部でのイデオロギー的な力関係の変化に焦点が合わされている。一番知りたかったところである。

1.3つの告白の主体

『ウェストミンスター信仰告白』は長老派によるもの、『サヴォイ宣言』は独立派(会衆派)によるもの、『第二ロンドン信仰告白』はバプティスト派によるものである。

2.3つの告白の背景

ピューリタン革命は「大内乱」(1642年から49年まで)と「共和国」(1649年から60年まで)に区分される。

A) 大内乱の時代

二つの時期を区分する内乱は二度起きた。

第一次内乱は王党派と議会派の争いであったが、議会派をスコットランドが支援して参戦した。

第一次内乱が議会派+スコットランドの勝利に終わった後、議会派の内部で二つの勢力が対立した。

一つは多数派である長老派であり、スコットランドの支援を受けていた。もう一方は少数派の独立派であり、内戦を闘った議会軍の主力を占めていた。

この対立を見た王党派が長老派を支援して戦闘を開始した。これにより第二次内乱が始まった。長老派が支配するスコットランドは今度は王党派と連合を組んだ。

第二次内乱の結果、議会軍(独立派)が王党派+長老派+スコットランドの連合軍を打ち負かした。

B) 共和国の時代

勝利した独立派と議会軍は、議会から長老派を追放し国王を処刑した。そして「イングランド共和国」を宣言した。

共和国の時代は前半と後半に分かれる。

前半において支配者となったのは独立派を主体とする「残存(ランプ)議会」であった。

53年に議会軍の指導者であったクロムウェルが護国卿となり、残存議会は閉鎖された。ここから後半の時代に入る。

58年にクロムウェルが病死すると、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿となるが、混乱はさらに深まった。

そして、議会軍の一部が権力を掌握し、チャールズ二世に政権を譲り渡すことによりピューリタン革命は終焉を迎える。

3.ピューリタンとは何か

ピューリタンの概念と範疇は革命の進行とともに変わっていく。

A) エリザベス王朝期のピューリタン

元々ピューリタンとは、イングランド教会の国教主義を批判するプロテスタントの急進派を指す言葉であった。国教主義批判には絶対主義王政への批判が萌芽的に含まれていた。

エリザベスの死とチューダー王朝の断絶の後、ピューリタンの中には本来の宗教的領域だけではなく政治・社会の全領域にわたり改革を主張する勢力が増大した。

その中にはかなり傾向の違う人々が含まれていた。

宗教的にいえば、その大多数はイングランド国教会にとどまりつつ、その中で長老制の実現を目指した。しかし一部には信仰を貫徹するために国教会を離脱する集団もあった。

彼らはいろいろな名前で呼ばれる。国教会から分かれるということで「分離派」と呼ばれたが、自らは「独立派」と名乗ることもあった。彼らの教会は長老制ではなく会衆制をとったため会衆派とも呼ばれた。

分離派: Separatists
独立派: Independents
会衆派: Congregationalists

B) 長老派 広義のピューリタン

1640年に国王チャールズ1世が議会を招集した。議会は当初、国王の専横を糾弾することで一致していたが、やがて国王の権威尊重をめぐり王党派と議会派とにわかれ対立した。しかし数においては議会派が圧倒していた。

宗教的にいえば、王党派は国教派であり議会派は「広義のピューリタン」であった。しかし必ずしも1対1の対応をしていたわけではない。

42年に内乱が始まると、議会から王党派はいなくなった。

残された議会派は、「ウェストミンスター宗教会議」を招集した。会議は『ウェストミンスター信仰告白』を起草し、議会に提出した。

これが長老派による「広義のピューリタニズム」の宣言となる。その経過については原著を参照されたい(それ自体が大変興味ある内容だ)。

戦闘が激化すると、議会派の中に完全な共和制を主張する急進派が生まれ「独立派」を称した。これに対し主流派は「長老派」と呼ばれるようになった。

C) 独立派 狭義のピューリタン

政治派閥である独立派と、宗教的セクトである独立派(会衆派)は同じではない。それは「独立」の概念がかなり曖昧だからである。

ニューイングランドに移住したピルグリム・ファーザーズなどの会衆派は、独立派の名を忌避した。

独立派には元々の会衆派に加え、グッドウィン、ナイらの聖職者が加わった。彼らは国教会の主教制にも、長老派の教会会規にも反対した。しかし会衆派がイングランド国教会を背教であると糾弾することには同調しなかった。

クロムウェルは戦略上の立場から独立派を支持した。彼は最初は議会派軍から長老派を排除した。そして強い信仰心を持つ独立派の信徒を募って無敵の騎兵軍団を組織した。

ついでクロムウェルは議会にも容喙するようになり、その圧力のもとで長老派は排除された。

D) 独立派内部での会衆派の独走

議会を握った独立派は、『ウェストミンスター信仰告白』に代わる会衆派の信仰告白を欲した。これが『サヴォイ宣言』である。

そして『サヴォイ宣言』への同意が国内における宗教活動を保護する上での条件となるよう求めた。

それがクリアーされれば、礼拝や教会の会規に相違があってもまったく同等に活動が保護され、身分が保証されるとした。

つまり独立派の踏み絵を踏めば、後は自由だというのである。これは社会組織の間ではありうる提起ではあるが、宗派間の対立の解決の手段としては、贔屓目に見ても拙劣である。

石井さんによれば、

クロムウェルは気乗りがしなかった。彼は信条的には独立派を支持してきたが、それ以上にプロテスタントの信仰の多様性を重視していた。とくに長老派と独立派との融和は彼がもっとも心を砕いたところであった。

という。

E) 共和制の崩壊と独立派

石井さんによると

独立派はクロムウェル政府から大きな好意を受けた。かなりの人は政府の手から教育および教会の聖職禄を受け取った。

彼らはその頃になると以前よりも保守的な態度を取り、どんな源泉からも喜んで援助を受け取るようになった。

という。

クロムウェルがなくなり、息子リチャードが護国卿を辞任する頃には、イングランドは絶望的な混乱と財政の急迫に陥った。

共和制が崩壊し王政が復古すると、長老派は国教会派と妥協しながら政治・宗教上の地位を保持し続けた。

独立派は共和国時代の地位と権益を剥奪され、政治的・社会的に没落したが、教会の合法性は保たれた。

しかし1年後に寛容政策は議会によって放棄された。長老派をふくめピューリタン派はすべて公的身分を失い、その活動は非合法化された。


この後の部分は専門的になるので省略するが、本文への注釈にも幾つかの興味深い記述が見られる。一読をおすすめする。

分かったことはこれが清教徒革命であり、まずもって宗教革命であることだ。だから清教徒革命イコール近代化革命というのは、あまりにも「史的唯物論」的にすぎる。

宗教革命であるならば、各宗派が何を考えどう行動したのかをしっかり描くべきだ。ジェントリーとかヨーマンを持ち出しても戦争の説明にはならず、混乱を招くだけだ。

中身を事実に従って吟味していけばこんなに話がこんぐらからなくても済んだのではないだろうか。これはラテンアメリカの歴史を編集したときにも強く感じたことだ。

何か物差しを持ってきて、物差しに合わせて裁断すると、結局肝心なものがするっと抜けてしまう。

「実事求是」、これが歴史を学ぶ上での絶対基準だ。