騎馬民族がやってきた時代

『天孫族』の考えはまだ私の独りよがりにすぎない。学会では、渡来系はすべて弥生系で一括されている。稲作を持ち込んだのも弥生系だし、倭の那の国王も弥生系だし、邪馬台国や卑弥呼も弥生系だし、纏向に大和政権を作ったのも弥生系だ。

しかしそこには二種類の弥生人が区別される。

①Y染色体でも長江系のO1に対して後発漢民族系のO2が区別される。

②青銅器文化に対して鉄器文化は後から持ち込まれた。

③彼らは北方系の天孫信仰を持ち込んだ。銅鐸を信仰の象徴とする長江人には異質のものである。

④彼らは銅鐸信仰を徹底的に排斥した。そのため銅鐸信仰は忽然として消滅した。

⑤彼らは人口の上では少数派にとどまった。O2人はO1人の人口を凌駕することはなかった。彼らは長江人の信仰を破壊したが、生産システムには手を付けなかった。

⑥彼らは天孫族の末裔を僭称する弥生人(出雲人)勢力の前に支配権を譲渡した。この結果、大和朝廷が全国を制覇した。

というのがその論理の筋道だ。

ふと思いついたのだが、これはまさしく江上波夫の言う『騎馬民族』だ。鉄製の強力な武器、騎馬戦という戦闘スタイル、これが天孫族の基本だ。これは長江文明を墨守する弥生人とはあきらかに異なる。

ただ縄文人、弥生人、天孫族という三層構造を確認するためには、天孫族がいつ日本に来たか、その時先行する弥生人とどういう関係にあったのかという点が明らかにされなければならない。

それは間違いなく弥生前期から中期にかけての時代だ。

当たり前だが、彼らは稲作民族ではないから、生産に直接携わるグループとして登場したわけではない。九州北部に出来上がった生産システムに対してはよそ者として登場したに違いない。

そのとき彼らはどういう身なりで登場したのだろう。征服者としてか、押しかけ用心棒なのか、それとも傭兵隊なのか。要するにそれは武士集団ではないのだろうか。

このあたりは両者の力関係によって変わってくると思う。流入者の力が圧倒的に強ければ百済型、あまり大したことがなければ任那型(部族連合)になっていく。

それが日本では、紀元前後に那の国を盟主とする天孫族の諸国連合という形でまとまっていくのではないだろうか。