星野盛久さんの「難民がつくった国『邪馬台国』」という文章があって大変良くまとまっている。星野さんという方は在野の研究者らしく、まったく肩書等不明である。

以下紹介させてもらう。

「まえがき」

今まで出尽くした感のある資料をもう一度見直し、整理し、論理的かつ客観的に推論を進めてみることによって、何が見えるのかを明らかにしてみたいと思います。

難民の作った国「邪馬台国」その1 ―弥生人は渡来人だった―

「弥生人の渡来による日本列島の人口増加」

弥生時代を考えるときに、出発点とすべきデータがあります。

(ということで、私も前に引用した小山修三さんの人口分布とその経過が引用される。)

詳細な表が掲載されているが、特徴点を箇条書きにしておく。

1.縄文早期から晩期に至るまで、人口はあきらかに東高西低で、縄文人が北方由来であることを示す。ただし縄文中期に九州に限局した人口の増加があり、朝鮮半島からの一定の人口流入があったことを示す。弥生人を受け入れた九州の縄文晩期人はこれらの人だった(Yハプロで言うC1aかもしれない)

2.縄文人というと東北・北海道を想像するのだが、実際には最大の居住地帯は北関東から信州にかけての一帯であった。しかしこの地帯は縄文後期から晩期にかけて壊滅的な状況を迎える。むしろ東北のほうが持ちこたえているので、寒さだけではないようだ。浅間山の噴火でもあったのか?

3.弥生時代に入って第一次の人口爆発が起きるのだが、これは東日本と西日本では様相が異なっている。関東を中心とした人口増加はある意味では元の勢いを取り戻したということであり、縄文中期に戻った形である。しかし近畿と九州では明らかに人口爆発が起きている。

4.とりわけ近畿の人口増加には注目しなくてはならない。すでに弥生時代において九州の人口を凌駕している。この2つは水稲栽培という点では共通しているが、九州はすでに鉄器時代に入っており、近畿では依然として青銅器時代である。近畿は私の考えでは銅鐸人の生活圏であったと思う。

5.弥生時代日本には九州生活圏(天孫系)、近畿生活圏(長江系)、関東生活圏(縄文系)が鼎立しており、人口ということで見れば、それらは拮抗していた。

6.青銅器から鉄器へという移行の時代として弥生時代をとらえるならば、西暦ゼロ年よりちょっと前までが青銅器時代、弥生後半が九州=鉄器、近畿=青銅器という並立時代。そして鉄器文化が近畿と関東を併合するに及んで、弥生時代が終了するというつかみ方になるのではないか。

7.たしかに九州勢は戦争に強かったから勝利し支配することになったのだが、人口に示される生産力はむしろ近畿のほうが強力であった。武器の優越は次第に失われ、近畿勢が政治的支配権も獲得するようになる。

8.古墳時代(星野さんはあえて土師器時代と称している)に起きた第二次人口爆発は、弥生期の三者鼎立体制を近畿中心体制に置き換えていく。近畿が唯一のビッグパワーとなり、関東に信州をあわせた勢力がかろうじてこれに拮抗する。九州は関東や中国地方にすら抜かれ斜陽の道を歩むことになる。

9.古墳時代の人口爆発は水田耕作のみでは説明できない。水田そのものは弥生期の第一次人口爆発を説明するものでしかない。近畿を中心とした人口爆発は、干拓や排水工事による新田開発抜きに説明つかない。その最初の舞台が大和湖であり河内湖であった。これにより水田面積は一気に増え、それに応じて人口も急増したのである。

10.大規模土木工事による耕地の拡大は水田のみにとどまらなかった。関東平野の中央部に存在した巨大な湿地帯も、同様の方法で耕地に変えられた。これが関東における人口爆発の理由であろう。それは関東平野の主人公(支配者)を縄文人から弥生人に変えた可能性がある。

11.このような経済バランスの変化にも関わらず、九州王朝はかなりのちまで軍事的優位を保ち続けていたと思う。ケンカは絶対ケンカ慣れしているやつが強いのである。九州は鉄器における優位を保ち続けただけでなく、朝鮮半島における北方勢力との闘いで絶えず戦闘技術を高め続けてきた。天孫系の分家を権力の頂点にいただく近畿の田舎者にはなかなか手強い相手である。

12.しかしそのような軍事的優位は自然に縮まってくる。すでに倭の5王の時代には政権交代が差し迫っていた可能性がある。そして西暦500年から550年の間に倭王朝は滅び、権力は次第に大和朝廷へと移っていったのではないだろうか。

(11と12はオミキが入ったための蛇足)