連帯精神の二つの源泉: 利他行動と集団協力

先日、「機微」の問題に触れた。人それぞれに想いと行動を結びつけるものとして「機微」というものがあって、そこを互いに掴みながら連帯していくことで、「真の共闘」が形成されるという話だった。

そしてこの「機微」というのは。ことの性格上積極的で能動的なものだから、そこさえつかめばあとは勢いだ、と書いた。

ただこれは連帯精神の一面、「おもんばかり」という作業である。そこには、その前提となる「思いやり」の心が前提となっている。

共闘という作業は「おもんばかり」だけでもけっこう進むだろうと思う。そこにはある程度の共通の思いが存在していて、課題はその思いを探り出すことになるからだ。

しかし共闘は出発点であり、そこから先には砂のような大衆が待ち受けている。我々は砂の一粒一粒を思いやりの心で満たしていかなければならない。

そこで「思いやりの心」だが、実はこれは二つの要素からできている。

ひとつは利他の心であり、もう一つは集団協力の精神である。

この二つの要素は、実はボノボとチンパンジーの比較研究から導き出されたものである。

をご参照いただきたいのだが、実はこれは山本真也(京都大学霊長類研究所ヒト科3種比較研究プロジェクト特定助教)さんの文章チンパンジー・ボノボにみる「徳」の起源の丸写しである。

詳しくはそちらをご覧いただきたいのだが、ボノボにもチンパンジーにも利他行動はある。ただチンパンジー社会では集団協力の傾向が著しく発達しているために、利他行動のほうが見えにくくなっているだけなのだ。

集団協力を中心とする社会関係(群れの掟)の中でも、連帯心とか社会規範は発達する。それは一見利他の心と似ている。しかし、集団という囲い込みを前提とするところに決定的な違いがある。それは本質的に排他的で選別的である。

しかしそれ以前に、自発的で無差別な「利他の心」は生得的に存在するのである。あまり手垢のついた言葉にしたくはないが、エトスとパトスの生物学的説明と言えないでもない。無論この二つは絡みあっている。高次の利他行動は、社会集団の中で習得され、昇華されなければならない。

砂粒に見える人々にも、いわばDNAとして利他的な思いやりの心は潜んでいるのである。それを掘り出して、アパシーという汚れを取り払って、息を吹き返させることが大事なのだ。

これは文学とか芸術とかが担う作業になるのかもしれない。