革命前期

1603 女王エリザベス1世が亡くなる。処女王として世継ぎを残さなかった。このためヘンリー7世以来続いていたテューダー朝が断絶する。

1603 スコットランド王ジェームズ6世が後継者として迎えられ、イングランド王ジェームズ1世として即位。スチュアート王朝が始まる。イングランドとスコットランドは同君連合となる。

1605 火薬陰謀事件が発生。カトリック教徒の貴族がウェストミンスターの爆破を計画。政府はカトリック教徒抑圧令(06年)を制定し、弾圧に当たる。

ジェームズはメアリ(エリザベスに処刑されたスコットランド女王)の息子でカトリック信者であったが、イングランド国王に即位するにあたり、国教会を尊重する立場を明らかにした。陰謀団はこれに憤激し、国王と政府幹部らを吹き飛ばそうとしたとされる。

1609 ジェームス1世が議会で演説し、王権神授説を主張。

発言の裏にはいろんなことが考えられる。外様として6年我慢していたのが、ようやく権力を発揮し始めた。王権を主張するために議会まで行って訴えなければならないほどに、王権は弱かった。「これからはあんたがたの指図を受けないよ」という宣言

1616    国王の側近だったフランシス・ベーコンが追放される。議会は王へ抗議文

1618 大陸で三十年戦争始まる

1620年 政府と国教会によるピューリタンへの攻撃が強まる。ピルグリム・ファーザーズ、迫害を逃れ新大陸に渡る。

国教会の教義は新教に近いが、カトリック的な形式が残されている。カルヴィン派はこの形式を新教にふさわしいものにしようとした。広義にはカルヴィン派はすべて清教徒である。そのなかで穏健派(長老派)は国教会内での改革を目指した。独立派は国教会からの独立を目指した。狭義には独立派を指して清教徒という。
ピューリタンというのは“ピュアな人”の意味だが、元の使われ方は「頑固者」を指す俗語のようである。同じように、オランダではカルヴィン主義者は「ゴイセン」(乞銭)と自称している。

1621 下院がジェームズ1世への「大抗議」を決議。  

1623 「独占大条令」が議会で成立。エリザベス女王以来の「独占特許」が原則禁止される。実際にはその後も横行したようである。

1625 ジェームズ1世が死去。チャールズ1世が後継者として即位。

1626    チャールス1世、歳入確保のため船舶税を新設、強制公債を発行。

船舶税: 沿岸を襲う海賊と戦うための資金とされる。無意味となった「休眠税」を復活させたもの。ジョン・ハムデン議員は公然と支払いを拒否した。
1628    議会開催、「権利の請願」を採択し国王に提出。
権利の請願: エドワード=コーク議員が中心となり起草。コモン・ロー(慣習法)の尊重、議会の同意を得ない課税や上納金、不法な逮捕・投獄などを止めるようもとめる。その法的拠りどころとして1215年のマグナ・カルタをあげる。
1629 チャールズ1世、「権利の請願」を拒否、議会を解散する。議会は解散にあたり「権利の3箇条」を決議。
チャールズ1世はこのあと議会なしで専制政治を行った。国王の側近のカンタベリー大主教ロードとストラフォード伯の二人が実際の政治にあたったので、この間をロード=ストラフォード体制ともいう。
国教会の教義が強制されてピューリタンは弾圧され、トン税・ポンド税などの関税、船舶税などが拡大された。
1634 清教徒の政治家ウィリアム・プリン、国王夫妻を中傷したとして耳そぎの刑を科せられる。37年にはもう片方の耳も削がれる。その後収監され長期議会の際に釈放。

1637年 チャールズ、スコットランドに主教制度と国教会の祈祷書・儀式を強制する。当時のスコットランドは長老派(プレスビテリアン)が国教となっていた。長老派はエジンバラで国民盟約を結び対抗。

スコットランド国王はカトリックだったが、1567年に国王の不始末が元で政変が起こり、ジェームズが即位した。この時カルヴァン派(長老派)が国教と定められた。

1638 ハムデンを被告とする「船舶税」裁判。「いかなる法律よりも国王の意志がまさる」との判決。
1638 ロンドンの商人ジョン・リルバーン(後のレベラーズ指導者)、チャールズの宗教政策を批判する文書を配布し、投獄される。

1639 第一次主教戦争が発生。スコットランド長老派、教会総会で監督制度廃止を決議し反乱を起こす。両軍はベリックで対峙したが、不利を察知したイングランド軍が闘わずして撤退。

1640年

4 チャールズ1世、スコットランド戦争の費用を捻出するため11年ぶりに議会を開催。議員の多くが戦費のための課税に反対。このため議論は紛糾し、合意が得られないまま3週間で解散。短期議会と呼ばれる。この後チャールズ1世はアイルランド議会(カトリック)からわずかばかりの戦費を調達。

8月28日 第二次主教戦争。ニューバーンの戦いで両軍が激突、スコットランド盟約軍の圧勝に終わる。イングランドはノーサンバーランド・ダラム両州の割譲、および1日あたり850ポンドの駐留軍維持費を支払うことで和解。

11月 賠償金財源の確保のため、ふたたび議会を招集。会期が長期にわたったため長期議会と呼ばれる。議会は冒頭、「大諫奏」(大抗議書)を提出。

議会では翌年にかけて国王を追い込むさまざまな決議が上げられた。①独占(エリザベス女王時代・チャールズ1世が特権的商人に独占権を乱発していた)を禁止する。独占に関わっている議員を追放する。②議会の同意のないトン税・ポンド税は廃止、船舶税は不法とされる。③三年に一度は議会を開催しなければならないと定めた「3年議会法」、④暴威をふるっていた星室庁および高等宗務官裁判所を廃止する。これらはほぼ全会一致で採択された。

1641年

5月 ストラフォード伯(Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford)が処刑される。元議会派でありながら国王の右腕となり、辣腕を振るった。

10 アイルランドで反乱勃発。カトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立。プロテスタントのイングランド人入植者数千人を殺害する。その後イングランドとの交渉は難航。

10 アイルランドの反乱が伝えられると、議会ではチャールズが反乱を口実に国王専制を企んでいるという見方が広がる。議会内改革派はよりいっそうの改革を推進するために、国王の悪政を列挙した「大諫議書」を議会に提出する。

「大諫議書」をめぐっては意見がわかれた。王党派が反対に回ったため11票差での可決であった。これを機に議会は王党派と議会派に分裂する。

王党派は爵位貴族や特権商人、ジェントリ保守派などで構成。イギリス国教派が多くを占めた。地域的にはヨークを中心とするイングランドの北部・西部。議会派は大部分のジェントリ(爵位を持たない地方領主)やヨーマン(豪農)、商工業者などで構成。多くはピューリタンであった。ロンドンを中心に東部や南部に支持基盤を持つ。

ただし、王党派といっても「チャールズいのち」というわけではない。むしろかなり怒っている。国王に縛りをかけるさまざまな決議にはすべて賛成している。王党派といっても、カルヴィン派の進出への恐れから消極的に支持しているにすぎないのではないか。


 革命・内戦期

1642年

1月 議会が分裂しているとみたチャールズ1世は、自ら兵を率いて議場に赴き、ジョン・ピムら議会の指導者5人の引き渡しを要求する。議会はこれを拒否する。

1月 チャールズは北部の王党派拠点ヨークに向かい、戦闘準備に取りかかった。これを見た議会は「民兵条例」を採択して軍事権を掌握する。

7月10日 第一次イングランド内戦が勃発。国王派(騎士党)がノッティンガムで挙兵、Siege of Hull で最初の干戈が交えられた。戦闘は各州内部で入り乱れて戦われた。初期は正規軍を中核とする王党派が有利であった。

騎士党と円頂党: 議会派(円頂党ともいう)と王党派(騎士党とも言う)の違いは必ずしも明確ではない。議会派にはピューリタンが多く、国王派には国教徒が多かった。しかし階級的にはジェントリ層が二分されており、単純に階級対立とは言えない。また中間派も多かった。

8月10日 ポーツマス包囲戦。議会派が砦を陥れて勝利した

9月23日 パウィック橋の戦い。騎士たちの活躍により王党派が勝利する。ここまでは一進一退の攻防

議会派の中心は当初は長老派であった。貴族・大商人を代表する長老派は、スコットランドと手を結び、国教会に対して長老主義の教会組織を全国に広げる戦略をとった。
しかし戦闘の展開とともに独立派が台頭してきた。地主や裕福なジェントリの代表たる独立派は、教会は聖職者のものでなく独立した平信徒によって運営されるべきであると主張した。また軍隊の力を背景に国王との徹底対決を主張した。
10月 エッジヒルの戦い。王党派優位のうちに終わり、議会派軍は多大な出血を余儀なくされる。このあと国王軍はロンドン攻略をいったん断念。オックスフォードに本拠をおき北部・西部を抑え、議会軍はロンドンを拠点に南部・東部を支持基盤とした。

ジェントリーの一員、オリバー・クロムウェルは議会軍の練度の低さを痛感。「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい」と悟る。私費を投じて熱列信仰者による騎兵部隊「鉄騎隊」(Ironside)を組織・訓練した。
11月 Battle of Aylesbury、Battle of Brentford、Battle of Turnham Green が相次ぐ。
1642年 ピューリタンの訴えによりロンドン中の劇場が閉鎖される。クリスマスのお祝いの禁止など、庶民の娯楽がいっさい禁じられる。

1643年

1月 Battle of Braddock Down、Battle of Leeds。

3月 First Battle of Middlewich、Battle of Hopton Heath、Battle of Seacroft Moor。

4月 Battle of Camp Hill、Siege of Reading、Battle of Sourton Down。

5月 Battle of Stratton

6月 Battle of Chalgrove Field

6月30日 アドウォルトン・ムーアの戦い。フェアファクス軍が敗走するなど、議会軍の弱体さが際立つ。

7月 Battle of Lansdowne、Battle of Roundway Down、Storming of Bristol、Battle of Gainsborough

8月 グロスター包囲戦

9月3日 ロンドン近郊に迫りくる王党派軍を前に、イングランド議会派がスコットランド盟約派と同盟。議会軍の他にスコットランドの支援を受けた東部連合軍(ジェントリー部隊の連合体)が成立。クロムウェルの部隊もここに所属。

9月 Battle of Aldbourne Chase、第一次ニューバリーの戦い

10月 Siege of Hull、Battle of Heptonstall

10月11日 クロムウェルの「鉄騎隊」がウィンスビーの戦いで王党派軍に一矢を報いる。

11月 Battle of Olney Bridge、Siege of Basing House

12月 議会派の指導者ジョン・ピムが末期ガンで死去。

12月 Battle of Alton、Second Battle of Middlewich

43年 ウェストミンスター教会会議が開かれる。国教会を長老教会体制に改革する計画が進む。

1644年

44年 スコットランド盟約派軍が、チャールズの軍との内戦 (Scottish Civil War) を開始。

7月 マーストン・ムーアの戦い。議会軍にスコットランド盟約軍、東部連合軍を加え、王党軍本拠地のヨーク近郊で戦闘となる。クロムウェル鉄騎兵の奮戦で議会派が勝利するが、王党派はなお主力を温存。

1645年

2月 「ニューモデル・アーミー」条例が成立。議会派軍の指揮権を握ったクロムウェル、議会軍司令部から長老派を追放し、軍全体を新型軍に改組する。

6月 ネーズビーの決戦。クロムウェルの率いる「新型軍」が王党派軍を壊滅に追い込む。敗れたチャールズはスコットランドに亡命。これにより第一次イングランド内戦は事実上終結する。

内戦勢力図。黄色は議会派、赤は王党派。
左上:1642年、右上:1643年、左下:1644年、右下:1645年。

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45年 内戦勝利後の展望、とくに議会派軍の扱いをめぐり、議会派内の相違が明らかになる。

軍から排除された長老派は、国王派と立憲君主制により妥協を図ろうとした。これに対し独立派は共和制に移行するよう主張した。
45年 議会派勢力内に第三の潮流「水平派」(レベラーズ)が台頭する。彼らの主要な政治基盤は議会派軍の下級兵士内にあり、ロンドンの手工業者・職人層を中心に組織されていた。宗義よりも財産権・参政権を強く求めた。指導者はジョン・リルバーン。

1646年

3月 王党派の本拠地オックスフォードが陥落。ついで国王軍最後の拠点チェスターも陥落。チャールズはスコットランドに逃れる。

5 スコットランド内戦、長老派の勝利に終わる。チャールズ1世は長老派軍に投降する。息子のチャールズ2世は母と弟ジェームズと共にフランスに亡命。その後48年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダのハーグに移ったが、翌年初めに共和政府と親交を結ぶオランダ連邦議会の圧力で、フランスへ戻る。

1647年

1月 スコットランド軍、チャールズ1世,イングランドの議会軍に引き渡す。チャールズ1世はそのまま幽閉される。

47年 軍の全権を握ったクロムウェル、議会改正法を提出。王制に制限をかける。議会内で長老派と独立派との派閥抗争が深まる。

秋 「パトニー討論」が行われる。水平派が、人民主権の共和国構想を柱とする憲法草案(「人民協定」)を作成。水兵派は議会に足場を持たないため草案を軍幹部に提出する。クロムウェルの右腕(娘婿)ヘンリ・アイアトンとのあいだに激しい討論が行われる。

1648年

48年 第2次内乱。議会軍の分裂に乗じて国王軍の残存勢力が反乱を起こす。長老派は動揺的態度を繰り返す。独立派は水平派(レベラーズ)と和解して反革命軍に対抗。

48年 長老派を支援するスコットランド軍、チャールス奪回のため侵入。

48年 プレストンの戦い。議会軍が反革命軍に勝利。

12月 「プライドの追放」事件。議会派軍プライド大佐が議会に入る。議会内の長老派を追放し、独立派だけで構成する「残部(ランプ)議会」を形成。クロムウェルはプライドの行動を支持した。一方スコットランドは長老派の弾圧に怒り、王党派を支持するようになる。

1649年

1月 独立派、チャールズ1世を処刑。国王はむしろ「殉教者」として讃えられ、裁判委員は後に「国王殺し」とよばれた。有力ジェントリは独立派から離れる。

それは将来展望もなく、まず国王殺しから始まった。1月4日下院のみの決議で「国王チャールズ1世処刑のための最高裁判所」が設置された。裁判委員は135名が任命されたが、多くは就任を拒否し実際には60名程度に留まった。
20日から裁判が開始された。国王は「議会とそれに代表される国民に反逆し不正な戦いをしかけた」とされ、「専制君主、反逆者、殺人者であり、国家に対する公敵」であると論難された。
27日、死刑の判決文が作成され、57名の委員が署名した。30日、チャールズ1世はホワイトホール宮殿外の処刑台で、衆人環視のもと断首刑に処せられた。
2月 革命の主導権を握った独立派は、革命の成果の独占を図ろうとした。水平派との同盟を解消し、さらに弾圧に転じた。
3月 独立派議会、君主制の廃止と貴族院の廃止を宣言。

廃止の理由: ①王という職は不必要であり、負担の多いものであり、人民の自由、安全および公けの利益に有害である。②貴族院(上院)も「人民に無用有害」である。
5月 バーフォードの闘い。給料の未払いを理由に従軍を拒否した水平派が反乱。ただちに鎮圧された。指導者リルバーンらは逮捕された。リルバーンは後に政治から離れ、クウェーカー教徒として信仰の道に入る。
5月 残部議会派、共和政府(コモンウェルス)の成立を宣言。国政は一院制の議会と、41名からなる国務会議(大半が議員を兼ねた)が統治することになる。

イギリスの人民はここに共和国、自由国家となる。今後、この国は最高権威すなわち議会によって、王や貴族院なしに統治される。
8月 共和政府のクロムウェル軍、アイルランドに侵攻。11年にわたる アイルランド同盟の支配に終止符を打つ。遠征軍は宗教的な使命感から、、「緑の島を荒れ地に変えた」といわれるほどの残虐行為を重ねた。

49年 ミルトンは国王処刑を非難する出版に対抗して、革命による国王処刑の正統性を弁護する論陣を張ったという。

49年 水平派に替わって「真正水平派」が登場する。ジェラルド・ウィンスタンリーが指導。新政府はこれらの人々を弾圧した。

土地を勝手に掘る人たちという意味で「ディガーズ」とも呼ばれた。

主要な基盤は零細農民で、私有財産制を否定し、土地の共同所有と共同耕作を提唱した。さらに社会改革の徹底、土地の共同所有、男女の法律・教育上の絶対的平等を求めた。この社会主義的な変革要求は、保守化したジェントリたちに危険思想として拒絶された。


1650年

2月5日 スコットランドの長老派政府は、チャールズ2世をスコットランド王として推戴すると宣言。

6月 チャールズ1世の子、チャールズ2世が亡命先のパリからスコットランドに入り即位を宣言。イングランド反抗を目論む。長老派も反イングランド感情からこれを支持する。

6月 イングランド議会はただちにスコットランド進撃を決議。

7月 クロムウェルを総司令官とするイングランド軍1万6千人がスコットランドに侵入

9月 ダンバーの戦い。クロムウェル軍がスコットランド軍を撃破。スコットランド軍の戦死3000、捕虜1万人。このあとクロムウェルはイングランドに戻る。

1651年

1月 チャールズ2世、パース近郊のスコーンで戴冠式を挙行。

9月 クロムウェル軍が再び出動。ウースターで国王軍を殲滅。チャールズは樹上で一夜を過ごした後、フランスに亡命。このあとクロムウェル軍はスコットランドを征服する。

10月 共和政府、スコットランド併合を宣言。

10月 共和国政府はライバル関係にあったオランダを中継貿易から締め出す航海法を制定。オランダ船の出入を禁止し、アジアからの富を満載してくるオランダ船を襲撃し始めた。


クロムウェル独裁期

1652年

5月 第1次英蘭戦争が始まる。2年後にイギリスの勝利に終わる。

5月 共和政府軍、アイルランド平定を完了。教会領の分配が開始される。

1653年

4月 クロムウェル、「残部議会」の解散を要求。クロムウェルは軍隊を率いて議会に乗り込む。この後、クロムウェルの意向に沿った改革が進行。

7月 軍が推薦した議員による「指名議会」が成立。軍が一枚岩でないのを反映して議会も一枚岩ではなかった。議会はジェントリの権益を保護する「コモンロー」をめぐり、廃止派、存続派、中間派に分かれた。

指名議会は別名ベアボーン議会とも称される。ベアボーンは下層階級出身の商人。ベアボーンが議員となったため、残部議会が指名議会を非難するときの格好の標的となった。
議会は王政への復帰を意図してクロムウェルに王位の提供を申し出たが、軍隊が強く反対したため、クロムウェルも断念せざるを得なかった。

53年 指名議会、アイルランドとスコットランドの独立議会を禁止。イングランド議会に議席を与えられたが、定数は不当に少なく抑えられる。

12月 軍隊幹部により「統治章典」が作成される。イギリス初の成文憲法となる。国家元首の地位を護国卿(Lord Protector)と定める。実体としては軍将校とピューリタン急進派の独裁だった。

全国を12の軍管区に分けて統治、軍政官を置いて地方行政を担当させた。多くが成り上がり軍政官で、支持基盤を欠いていたため、地方行政は混乱する。

農民の貧困の最大の原因となったジェントリーによる「囲い込み」(エンクロージャー)は、むしろこの時期に進行する。


1654年

4月 オランダと講和。第一次英蘭戦争が終了。

4月 スコットランドはイングランドに吸収され、合邦が宣言された。

54年 英西戦争が始まる。共和政府軍がダンケルクを占領。

54年 イングランド共和国とオランダがウェストミンスター条約を締結、オラニエ=ナッサウ家(オレンジ公)のチャールズ2世への援助を断つ。

54年 フランスもイングランド共和国に近付いたため、チャールズはドイツのケルンに亡命。

1655年

3月 国王派の反乱が起きる。反体制勢力への取り締り強化

55年 指名議会で急進派が勢力を拡大。コモンロー廃止の方向が強まる。クロムウェルは議会を解散し独裁を敷く。

1656年

9月 クロムウェル。第二議会を招集

56年 チャールズ2世、スペインと同盟を結び、スペイン領ネーデルラントに宮廷を構える。最初はブリュージュ、その後ブリュッセル。

1657年

3月 議会は政治安定のため、王政復活を試みる。 「謙虚な請願と勧告」と称する統治章典の改正案を提出。クロムウェルは国王就任にまんざらではなかったらしいが、軍部の反対により構想は挫折。

6月 統治章典の改正。クロムウェルの後継者指名権、貴族院復活などをふくむ新体制(実際に復活したのは60年)。

1658年

58年 クロムウェル,護国卿体制下の第二議会を解散

9月3日 クロムウェル、インフルエンザで死亡。享年59歳。息子のリチャードが護国卿に就任。父親の腹心であったジョン・サーローが彼を補佐するが、すでにタガが外れた共和制の存続は絶望的となる。

1659年

5月 リチャード、強権政治を試みるが議会の反発を前に、辞任に追い込まれる。この後元首不在の状況が続く。

リチャードは、オリバーの3男(2人の兄はすでに死亡)。護国卿となったのが32歳で、実戦の経験もなく人を束ねる器量もなかった。その後王政が復古するとフランスに亡命。政界に関わらず余生を送る。
5月 ニューモデル軍の長老派は残部議会を再招集。この後、議会が影響力を拡大し軍の権威は失墜していく。

10月 残部議会、軍内強硬派ランバート将軍を罷免。翌日ランバートが議会を閉鎖し権力を掌握する。

12月 スコットランド方面軍司令官ジョージ・マンク、ロンドンでランバートと会談。議会の招集を要求する。ランバートがこれを拒否したことから話し合いは物別れに終わる。


1660年

1月 マンク、ランバートの独走を許さず、イングランドに兵を進める。ランバート軍は戦わずに敗走。ランバートは捕らえられる。

2月 スコットランド軍およびイングランド軍総司令官となったマンクの統率の下、長老派もふくめた「長期議会」が再開される。一方でチャールズ2世と連絡を取り、王政復古の道を探る。

4月 王党派も含めた仮議会が招集される。これとともに貴族院が復活。

4月4日 チャールズ2世がブリュッセルからオランダに移り、「ブレダ宣言」を発表。革命中の言動に対する大赦。信仰の自由,革命中に購入された土地財産への保証,軍隊の未払い給与の支払いを約した。諸改革はそのまま引き継がれることとなり、スコットランドとアイルランドに独立議会の再開を保証する。

4月25日 マンクの組織した仮議会が開かれる。王党派が多数を占める。

5月1日 仮議会、「ブレダ宣言」を受けチャールズを正式な君主として認める。これを受けたモンクはチャールズ2世を王位に迎えると発表。共和政府内に反対の声なし。

5月29日 チャールズ2世がロンドンに入る。民衆は熱狂的な歓迎。


クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ、さらし首にされる。その妻子も処刑された。ほかに30名の革命首謀者が死刑となる。マンクはアルベマール公・大将軍に就任。

長期議会の初期に可決された改革立法の多くはそのまま認められ、イギリスの国制のなかに定着する。

革命中に王党派から没収された土地は、ほとんどそのままとなる。革命の恩恵を被ったジェントリが、毛織物などのマニュファクチュア経営,炭鉱などを展開。近代イギリス社会の担い手となる。