「考える葦」についての断章

「考える葦」の全文は次のようになっている。(Pensee L200-B347)

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のうちで最も弱いものである。しかしそれは考える葦である。

かれをおしつぶすために,宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でもかれを殺すのに十分である。

だが,たとえ宇宙がかれを押しつぶすとも,人問はかれを殺すものよりも尊いだろう。なぜなら,かれは自分が死ぬことと,宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。

宇宙は何も知らない。

だから,われわれの尊厳のすべては,考えることのなかにある。

われわれはそこから立ちあがらなければならないのであって,われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。

だから,よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

以下は山田さんの読み込みである。

パスカルが人間の弱さを言うとき,モンテーニュが連想されているといわれる。だが人間が「考える葦」にたとえられるとき、人間の人間たる由縁はものを考える点にあると見なされている。パンセのなかにはデカルトにかなり近い定義もある。「自我は私が思考するところに存在する」

これに対して宇宙は無限なる空間であって,人間はその両極を知りえないまま「無限と虚無との,この二つの深淵の中間」に漂っている。その驚異を前にして私は恐れおののく。

(多分これはデカルトにかなり引きずられての発想であろう。今日では「思考」はそれほど根源的なものではないことが明らかになっている。もっとも根源となるのは宇宙に対して抗うことであり、抗いながら個別的同一性を維持することである)

だが宇宙はそうしたことを何も知らない。それは純粋に物理的な空間であって,昔人の考えた宇宙霊魂などではないからである。

「あらゆる物体,すなわち大空,星,大地,その王国などは精神の最も小さいものにもおよばない。精神はそれらすべてと自分自身とを認識するが,物体は何も認識しないからである」

思考(人間)は物体(宇宙)から截然と区別され,明らかに物体に対して優位に立つ。

空間によって,宇宙は私をつつみ一つの点として私をのみこむ。思考によって私は宇宙をつつむ。

(これはデカルトというよりアウグスティヌスの箴言である。このあと、パスカルはデカルトの主体論・認識的理解に接近する)

人間は考えるために創られている。それは彼のすべての価値である。その思考の順序は,自分から,また自分の創造主と自分の目的からはじまる。

(優れているのはここまで、あとは信仰論にへたり込んでいく。なぜパスカルがここで腰砕けになるのかはよくわからない)

研究の出立点とすべきは,物体的延長の世界を分析することではなく,自らの精神や神を考えることである。よく考えることに人間の尊厳と価値とがあり,そこに道徳の根本がある。

とまぁ、こんなところに落ち着いていくのであるが、これに対してデカルトはどうか。これについては山田さんがけちょんけちょんにやっつけている。

デカルトは無限宇宙を眺めても深淵は見ないし,なんの戦慄も覚えない。

かれはパスカルとは違って,自らの生死や世界の不可思議に身を震わせる繊細な精神の持ち主ではない。むしろ,きめの粗い幾何学的精神で人生・世界を割り切って生きる人である。

神によって与えられたこの生を確信をもって歩みたい,死を恐れずに生を愛しながらこの世界を生きたいと思うだけである。完全な道徳は諸学を踏まえた知恵の最終段階であり,仮りの道徳で当座をしのぐのがデカルトの生き方であった。

「そこまで言うか」とも思う。

パスカルの「考える葦」にはもう一つの側面がある。弱き者としての人間である。人間は考える点でたしかに偉大だが,同時に葦であるかぎりは相変わらず弱きものである。

パスカルはパンセの他の場所でこうも言っている。

人間の偉大さは,人間が自分が悲惨であることを知っている点で偉大なのである。樹木は自分が悲惨であることを知らない。したがって悲惨であるのを知るのは悲惨なことであるが,しかし人間が悲惨であるということを認識しているのは偉大なことである

偉大さがいくら強調されても,人間がそれによって悲惨な存在であることをやめるわけではないのである。

さらに言うなら、思考においてさえも人間の弱さは露呈する。考えることはその本性からしてきわめて偉大だが,「考える」といっても戦争をすることや王になることなど,ろくなことを考えないからである。

結局これも信仰の世界に行き着く。愛の秩序によってその矛盾を脱しえるというのである。パスカルは明らかにデカルトを乗り越え、スピノザ的汎神論の世界に踏み込んだ。しかし乗り越えた瞬間にへたり込んで、論理の世界から逃げ出してしまうのである。

(2)神の存在証明

以下略