以前、パスカルのデカルト批判を積極的に受け止めて評価したことがある。

「我思う、故に我有り」なんていうのは、風呂で屁をへってあぶくが破裂して「くせぇ、故に我有り」みたいな話だ。

それに比べれば「人間は考える葦である」なんてのは、かなり「いい感じ」だよね、という乗りである。

しかしこれで済ませていたのではあまりに情けない。情けないが、今さら原著に当たる馬力もない。

ということで、山田弘明さんの「パスカルとデカルト」(名古屋大学文学部研究論集)という解説を読んでお茶を濁すことにした。

 

イントロ

パスカルがデカルトから受けた影響は大きい。この二人は実際に面識があった。

デカルト批判のなかにパスカルの哲学の基本的スタンスが最も明瞭に現れている。

この論文では両者の交渉の事実関係を見たうえで(第一節),パスカルがデカルトに言及したテキストを分析する(第二節)。

そしてデカルト批判の中で「考える葦」と神の存在証明問題を吟味する(第三節)。

1.交渉の事実関係

実際の交渉を示すものとして,(1)父エチェンヌ・パスカルとデカルトとの関係,(2)デカルトのパスカルへの言及,(3)両者の会見,の三点をとりあげる。

(1)エチエンヌ・パスカルとデカルト

まず父エチェンヌ・パスカル(1588-1651)とデカルトとの関係である。息子パスカルは父からデカルトの読み方を教わったとも言える。

エチェンヌは,デカルトとほぼ同世代の人であり,同じ学者仲間であった。クレルモンの税務署長までなったが,元来が実証的な近代精神の持ち主であり,数学や自然学に通じていた。

アプリオリな理論よりも実験を重視する精神は,息子にも受け継がれた。

1638年,エチェンヌはデカルトの『幾何学』を批判したことがある。まもなく紳士としてデカルトと和解したという。

要するに幼いパスカルは,科学的精神の持ち主である父から,デカルトの評判と同時に批判も耳にしていた可能性がある。これがパスカルが抱いた最初のデカルト像である。

(2)デカルトのパスカル評

一方、デカルトは駆け出しの数学少年パスカルをどう評していたであろうか。

1640年、16歳のパスカルは「円錐曲線試論」を発表した。当時オランダにあったデカルトは,はなはだ冷ややかな態度をとった。

パスカル氏の息子の『円錐曲線試論』を受け取りました。半分も読まないうちに,これはデザルグ氏から学んだものだと思いました。

1647年、二人はパリで面会した。デカルトは水銀柱の実験についてパスカルに“サジェッション”を行っている。

しかしその後、この“上から目線のサジェッション”をめぐって両者に齟齬が生じ、関係は気まずいものとなっていく。

デカルトはパスカルから寄贈された新刊『真空に関する新実験』を読んで,「この小冊子を書いた青年は,その頭が少し真空にすぎるのではないか」と椰揄している。

デカルトから見たパスカルは,叩いておくべき生意気な若造というのが率直なところであったかと思われる。

(3)パスカルとデカルトとの会見

両者がパリで実際に会見したことは,二人の交渉の事実関係の最たるものである。しかし会見の中身についてはデカルト側とパスカル側でかなり異なっている。(内容については省略)

 

2.パスカルのデカルト批判

デカルトの影響の大きさを考えると,パスカルがデカルトに直接言及したことは意外に少ない。

言及の内容としては批判的なものが圧倒的に多い。

(1) ノエル神父宛て書簡

デカルトは微細物質説を主張し真空を否定していた。パスカルの真空説はデカルトに真っ向から対立するものであった。

パスカルはノエル神父宛の手紙の中で、デカルトの微細物質説を否定している。

ノエル神父はデカルトの旧師であり,その真空否定説に与していた。パスカルは科学的推論がどうあるべきかを示しながら微細物質説の不合理性を堂々と論じている。

微細物質説は現代の最も高名な,ある自然学者の所論であります。その自然学者は,感知しがたいある物質が宇宙の中にあると主張しています。そのことは神父様もその方の著書の中でお読みになられたと思います。

かれは,その存在が感覚では証明できないことを以ってその存在を信じるよりも,むしろその存在を否定する方により一層の正当性があると断ずる。

パスカルにとって,デカルトはまずこうした点で批判すべき対象であったのである。

(2)「説得術について」

私の基礎学力の問題かもしれないが、このあたりからにわかに村上さんの論旨が読み取りにくくなってくる。

パスカルは「説得術について」という文章を残している。そこでパスカルは一つの言葉を引用する。

「物質は本来,いかにしても思考することができない」

これはパスカルの言葉ではない。1200年前に聖アウグスティヌスが語った言葉である。

このアウグスティヌスの原理と,「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」というデカルトの原理とは,同じ論理の裏返しではないか、というのがパスカルの受け止めである。

第一に、「物質は本来,いかにしても思考することができない」というのは、「物質はその本質において非精神的なものとして措定されている」からである。

ただし、そのものズバリの表現はデカルトの文章にはない。

第二に、パスカルは「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」という命題について、独特の読み方をする。すなわち「わたしの存在を主張するよりも,わたしの本性が考える点にあることを示している」と読む。

難しい言い方だが、「人間には精神(わたし)という“非延長的なもの”があり、その精神(わたし)が考える。したがって考えるということはわたしの個別性を証明する行為である」ということになろうか。

物体の非思考性と精神の非延長性と,この二つが表裏一体をなしてデカルト的二元論を成立させている。そして思考の重要性についてはパスカルも深く賛同している。「考える葦」がまさにそうである。

ここで村上さんは第一命題(アウグスティヌス)の存在を知らなかったデカルトの狼狽ぶりを描いている。

デカルトは,「コギト・エルゴ・スム」がアウグスティヌスの言明に類似していることを知らなかった。さまざまな人からそれを指摘されたデカルトは、図書館で『神の国』を読み,なんとか違いを示そうと考えた。

自分はアウグスティヌスとは違って,考える私か非物質的な実体であって物体とはまったく異なることを言いたかった

というのがデカルトの弁明である。要するに,かれはスコラ的知識の欠如を暴露している。この「事件」をパスカルは下敷きにしているのである。

そろそろ村上さんのとりとめのない無駄話に苛ついてきた。

(4)「パンセ」

『パンセ』においてデカルトの名が登場するのは六つの断章である。いずれも短いフラングメントであって真意を知るのは難しい。

デカルト。大づかみにこう言うべきである。「これは形状と運動とから成っている」と。だが,それがどういう形や運動であるかを説明するのは無益であり,不確実であり,困難である。

村上さんの解釈では、「物体が形状と運動からなっていることは事実だが、物体(自然)は機械ではない。そこには神が必要だ」と主張していることになる。

それはそれとして事実だろうが、パスカルが「神」として持ち出しているのは、もう少し具体的なもの、客観的な「存在理由」ではないだろうか。

だから下記の村上さんの解釈には違和感を覚える。

信仰の問題をぬきにした自然学は,人間の魂の救済に役立だないがゆえに無益であり,真の知識にならないがゆえに不確実である。また無限な宇宙の探究は,有限な人間の及ぶところではないがゆえに困難である。そして「あらゆる哲学」(自然学・形而上学・道徳)は,それが信仰を拠り所としないかぎり学ぶに値しない

パスカルのデカルト批判は,このテーマの下に一貫している。

ここまでの議論を見る限り、明らかにデカルトは形而上学的で、いわば原理主義である。そしてそれはコギトという主観に収斂していく。これに対してパスカルは事実をありのままにとらえ、ますもって受け入れよと言っている。そして事実とは叙述的にしか定義できないと主張している。もちろんそのような諸事実の積み上げと推理によりそれらは真理となっていくし、実験によって動かし難く確証されていくのであるが。

そしてそのような対象的世界、所与としての自然こそがパスカルのいう「神」なのではないか。だからパスカルは「神」の名において「唯物論」を語っているともいえる。マルクス風に言えば「客観的観念論」ということになる。

村上さんはこの言葉をめぐる解釈をるる説明している。しかしあまりにもうっとうしいので、とりあえず飛ばしていくことにする。

ただパスカルは、宗教者としての自分についても語っており、「神」は理神論的レベルに留まるものではない。これは心の内面の問題である。

機械論的自然の原点に神を置き,自然の薀奥を究めてよしとするのは,理性の驕りであり「空しい好奇心」である。数学や自然学などは魂の救済に関して無益であり,全力を傾注すべきものではない。