ホッブス、ロック関連の年表

すみません。不勉強で知らなかったのですが、デカルト・パスカルとホッブス・ロック、それにスピノザが同時代人であることを知りませんでした。

どちらかと言うとデカルトやスピノザは哲学畑で登場するのに対し、イギリスの2人は「社会思想史」というわけのわからない学問の方で登場します。

しかし、ホッブスは1640年にパリへ、ロックは83年にオランダに亡命するなど、両者には明らかに交流があったと思われます。

どちらがより多く影響を与えたか。それは言うまでもなくホッブス・ロックの方でしょう。彼らは革命を闘い、歴史の最前線にいたからです。

ところがその辺が、これまでの知識ではまったく浮かび上がってきません。

少し調べてみます。

ヒュームとルソー・百科全書派については別の機会に回します。ベーコンはとても面白そうですが、こちらもいずれ。


1588 .トマス・ホッブス(Thomas Hobbes)、聖職者の子として生まれる(-1679)

1588 スペイン無敵艦隊がイギリス海軍に敗北。

1600 イギリスが東インド会社を設立。

1603 日本で江戸幕府が成立。

1605 フランシス・ベーコン(44歳)、「学問の進歩」を発表。

1607 オックスフォード大学を卒業。貴族の家庭教師となる。アリストテレス学派の修辞をきらったという。

1610 ホッブス、貴族のヨーロッパ旅行に随行し最初のヨーロッパ遊学に出る。

1618 欧州で30年戦争が勃発(-48)

1620 ピルグリム・ファーザーズ、プリマス上陸

1620 ベーコン(59歳)。『ノヴム・オルガヌム』(新機関)を発表。「知は力なり」と主張。スコラ哲学を排し実験による研究を重視した。このため経験哲学の祖と呼ばれる。

1620  ホッブス32歳。ベーコンの助手として彼の口述筆記をしたり、著作をラテン語に訳したりする。

1621 ベーコンは大法官(最高裁長官)だったが収賄で失脚。ロンドン塔に一時幽閉される。その後官界を引退。

1625 オランダのグロティウスが「戦争と平和の法」を発表。

1626 ベーコン、鶏の冷凍実験中の発熱が元で死亡(65歳)

1629 ホップズが2度目の大陸旅行でユークリッド幾何学に出会う。

1630 二度目のヨーロッパ遊学(42歳)。ユークリッドの『幾何学』に惹かれたという。

1632 ロック生誕(-1704)。ホッブスとは44歳異なる。

1633 ガリレオ・ガリレイ、68歳で地動説を唱え異端裁判で有罪判決。

1636 ホッブス、ガリレオの理論に共鳴。48歳でガリレオを訪問する。「物体の自然状態は運動にあり、止めなければずっと動き続ける」とする考えを社会に当てはめようとする。実際はベーコンの影響下に経験論的政治学の確立を図ろうとしたものであろう。

ホッブスは事物の第一原理を「運動」(motion)に求め、人間の心の数々の運動の中で特に「死によってのみ消滅する永久不断の意欲」であり、人間の自己保存の衝動に結びつく「力への意欲」に着目した。

1637 デカルト『方法序説』を発表。この頃すでにデカルトは物理学者として名を成していた。ホッブスはデカルトの著作にも触れている。

1640 ホップズ、52歳にして「法学要論」を著す。動く物体としての人間が相互に影響を及ぼす中で、社会が形成されていると主張。王権神授説に対し人民の「自然権」を提唱。人民の委譲を受けた君主が国家を守護するという社会契約説を提唱。

美濃部達吉の「天皇機関説」みたいなもので、王党派からは無神論者であるとされ、共和派からは専制政治擁護者と見られた。

1641 徳川家光による鎖国体制確立。清とオランダのみに門戸が開かれる。

1642 イギリスで内乱(クロムウェル)が勃発。ホッブス、政情不安の中で絶対王政の支持者とみなされ、フランスへ亡命。

ホッブスはもともと王党派的な考え方を持っていたが、クロムウェルによる政治を目にしてからは、政治的なアナーキーに対する憎悪感をいっそう強めた。

1642 ホッブス、『市民論 De Cive』を匿名で発表。ダイナミックな人間の相互作用が、政治力学に与える結果を提示しようと試みる。

1645 イングランド王太子(のちのチャールズ2世)パリに亡命。ホッブズが彼の数学教師となる

1647 ホッブズ、イングランド国教会の洗礼を受ける

1648 30年戟争が終結。ウェストフアリア条約が結ばれる。神聖ローマ帝国の事実上の解体とスイス、オランダの独立。

1649 クロムウェル、チャールズ1世を処刑、共和制を宣言する。10年間にわたる独裁。

1651 「リヴァイアサン」を発刊。

リヴァイアサンの内容については他文献を参照のこと。ただし主権者の意志にただひとつの留保を加えたことを銘記すべきだ。それは「人間の自己保存はあらゆるものに優先する。主権者が自分たちの安全を脅かすような場合には、それに抵抗する権利がある」という考えだ

リヴァイアサン初版の表紙: 巨人リヴァイアサンの体は無数の人間からできている。絵には描かれていないが、リヴァイアサンに対抗するもう一つの怪物がある。それは万人の相争う自然状態をもたらす「ビヒーモス」という存在である。
ビヒーモスの出現による国家の崩壊をふせぐためにはリヴァイアサンを強くする必要があるというのがホッブスの主張だ。

リヴァイアサン

1651 ホッブス63歳、大赦を受けクロムウェル支配下のイギリスに戻る。リヴァイアサンの無神論とカトリック攻撃がフランス政府を怒らせたため居づらくなったとされる。

1655 さまざまな論争を手がける中で 『物体論 De Corpore』、 『自由、必然、偶然に関する諸問題』、『人間論 De Hormine』などを出版する。

1660 王政復古。チャールズ二世はホッブス72歳を相談役に据える。

1661 ルイ14世の親政開始。

1661 ニュートン、19歳で万有引力の法則を提唱。

1662 ロンドン王立協会が設立される。『哲学会報』を刊行。

1663年 スピノザ、『デカルトの哲学原理』

1666 下院、「リヴァイアサン」を発禁処分にするよう決議。チャールズ二世の拒否権発動により実現せず。この後、ホッブスの言論活動は抑制される。

1670 パスカルの論集「パンセ」が発表される。

1670年 スピノザ『神学・政治論』。

1674 スピノザ、『エチカ」

1679 ホッブス、91歳で死亡。

1681 ホップズ『哲学者と法学徒との対話』、死後に発行される。

1683 ロック、ジェームズ2世の王位継承に反対し、51歳でオランダに亡命。

1688 イギリスで名誉革命が勃発。王権の優位を覆す。

1688 ロックがイギリスに帰国。

1689 イギリスで権利章典が制定される。

1689 ロック『統治二論」。社会契約説にもとづく市民社会の政治原則として、人民の抵抗権・革命権を唱える。

1690 ロック『人間悟性論」を著す。ニュートン原理に基づきイギリス経験論哲学を整理する。