2017年01月08日 「神の手」スキャンダルの経過 から見えるもの
それは、考古学界の度し難いボス支配構造だ。
この構造は二重の縛りとなって研究者をがんじがらめにしている。
直接的には、発掘作業には行政とのコネが物を言うからだ。道路を作るビルを建てる。そのために地面を掘り返したら遺跡にぶつかってしまった。
当然建設作業は中断するしかないし、どこかの発掘チームが文科省なり文化庁なりから金をもらい、人を雇って、一定の時間内に作業を済まさなければならない。
誰がそれをコーディネートするか。
考古学教室やらのボスがやるしかない。それに楯突くことは研究を放棄することを意味する。
第二に、群馬の相沢さんみたいにコツコツとやって大発見をしたとしても、それを学会に認めてもらうにはどこかのボスを頼るしかない。
そのボスが手柄を独り占めしても泣き寝入りするしかない。
考古学の研究には否応なしにそういう面がつきまとう。こんなところでいくつ調査委員会を作っても、金太郎飴だ。
前方後円墳をもって「古墳時代」とする定義にもそれが見え隠れする。
いつまでこんなアホな事を言い続けるのだろう。京大の教授には邪馬台国近畿説の人しか就けない時代がいつまで続くのだろう。何か新発見があるたびに、「卑弥呼の某」とか「邪馬台国の某」という見出しが新聞の見出しに踊るのは、誰かが吹き込んでいるに違いない。
大規模水田の開拓と人口の爆発、乾式稲作技術の全土への波及を「古墳時代」の本質的特徴と見ない、葬儀屋学がいつまで続くのだろう。
コメント