もう少し探していくと、嵐山町Webのネタと思しき記事に当たった。

マント蛙のブログ 日本の産声を聞きたい

2010年03月03日 という記事。

箸墓古墳に代表される前方後円墳に先行して、築造されたと思われる古墳を「纏向型前方後円墳」という。(1987年 寺沢薫)

具体的には石塚、勝山、矢塚、ホケノ山、石名塚、マバカの6基の前方後円墳をさす。

(これに付随して「大和盆地内の弥生時代の遺跡には目立つものがなく、前方後円墳の母体になったと考えられる遺跡は見当たらない」との注目すべき注釈がある)

纏向型2

前の記事と同じだが、まことにありがたいことに、絶対年代が記入されている。これにより纏向古墳との前後関係が分かる。(クリックすると拡大されます)

○が纏向6古墳と同じ頃で、●は纏向よりあとである。ただし纏向様式を残しているから、箸墓以降の完成された前方後円墳よりは先行している可能性が高い。

図につけられた解説を無視すれば、前の記事と基本的事情は変わらない。

先行する弥生式古墳文化の存在しない大和盆地に、飛び地状に、それもいきなり、日本最大級の古墳がドカドカと立ち上がったのである。

したがって、纏向型6古墳を作った人々が外来者であることは間違いない。

では彼らはどこから来たのか。2つのルートと言ったが、越前方面には◯は存在しない。直接に可能性があるのは播磨から備前にかけての地域と阿波である。とりわけ備前の中山古墳は大きい。

しかしそれらはどこから来たのか。地図を素直に読む限り九州北部である。ただ出雲を追いやられた人々(大物主一族)である可能性も否定できない。直接の根拠はないが…

もちろん、備前そのものが紀元前5世紀までさかのぼって弥生式農業の拠点(吉備国)であったことも無視してはならない。

寺澤さんは吉備起源論を展開しているらしい。ブログ主さんはこう紹介している。

前方後円墳を構成する要素の肝心の部分は、吉備や讃岐、播磨などの中東部瀬戸内地域の要素で占められています。それに続くのが北部九州であり、近畿の要素ははるかに少ないのです。

らに追い打ちをかけるように

それでもまだ、奈良盆地に前期の巨大前方後円墳が集中していることに目を奪われて、その権力系譜を大和中心に見る根は深い

と述べている。