嵐山町Web博物誌というページからの転載。

嵐山町(らんざん)というのは埼玉県比企郡嵐山町のこと。

纏向型

初期古墳の分布図と題された図だ。

説明文を引用する。

纒向型と呼ばれる初期の前方後円墳は、瞬く間に全国へと広がります。それは、祭祀の形態を共有することで地方の政治勢力が大和政権に次々と参画していくことを意味すると考えられています。

しかし私にはそうは読めない。

私は古墳には強くないので、どういう読み方をしたら良いのかわからない。初期というのはおそらく絶対年代のことではないのだろう。纏向を初期として、それと類似したスタイルを取っている前方後円墳を初期型としているのではないか。

それを承知で、これを250~300年ころの前方後円墳の分布と読むならば、纏向を中心に前方後円墳が始まり、それが全国に広がっていったとは到底読めない。

素直に読めばこういうことだ。北九州に始まった「前方後円墳」人(土木技術者をふくむ)集団が、瀬戸内海を通じて東部に拡散するルート、日本海沿いに越前へと広がるルートである。(ただし九州の前方後円墳の多くは大和からの逆輸入の可能性が高い)

纏向に集中するスポットはこの2つのルートから明らかに孤立しており、ここに移入した「前方後円墳」人集団がいたことを想像させる。

この纏向集団の由来としては東瀬戸内ルート、越前ルートが考えられる。

関東へは越前→越後→信州経由で入ったと思われ、千葉周辺のコロニーが目立つ。

ところで私には、むしろ中四国西部と山陰(出雲)にかけての空白(ブラック・マタ-)が気になる。そこには前方後円墳を受け入れない方形母集団がいたのではないだろうか。たしか鳥取の妻木晩田遺跡は方形墓で250年以降に突如衰退を迎えたと書いてあったように思う。

逆の読み方、すなわち前方後円墳形式が纏向で創造され全国へ拡散していったというふうな読み方は、古墳時代初期に限ればきわめて困難である。