前方後円墳研究の課題 という論文を見つけました。著者は岸本直文さん、大阪市立大学の雑誌のようである。2001年の発表で、多少古いかもしれなません。

この論文の「はじめに」という部分を読み始めたのですが、のっけから読書が進みません。いちいち文句をはさみたくなります。まず少々長めに引用します。

 古墳時代は、前方後円墳をはじめ10数万基ともいわれる古墳が、列島の広い範囲で盛んに築造された。

 弥生時代にはそれぞれの地域で各種の墓制が発達した。弥生時代後期から終末期にかけて、規模の大きい首長墓がいくつかの地域で発達した。

 前方後円墳は、これらを受け継ぎ、各地の墓制・祭式を再編する形で三世紀中頃に創出された。

 奈良盆地に巨大な前方後円墳が築かれ、それが全国に広がっていった。前代までの地域社会の枠を越えた政治的関係が生まれ、国家的な歩みが始まった。

 前方後円墳は、古墳時代を通じてもっとも最上位に位置づけられた墳形であり、この時代をもっとも特徴づけるものである。ゆえに古墳時代は「前方後円墳の時代」である。

 前方後円墳を筆頭に各種の墳形や規模によって、ある種の身分秩序が表現された。こうした秩序が必要とされ機能していたことが、この時代の本質的な特質である。

 古墳時代とは、この秩序を主導した倭王権という中央権力が各地域の有力者をおさえ、格差を拡大していった時代である。

 倭王権の成立過程を、王権と地域勢力との政治的関係の推移、国家の形成過程がどう進んだのか、などからあとづけたい。

 この論文は、列島の古墳と古墳群のあり方から、前方後円墳の築造規格を手がかりに、それを追求したいと考えている。

というのが大要。これに2017年01月01日の論理を使って反論してみたい。

1.古墳時代は古墳ブームの時代であった。

これについては異存はない。その中核として前方後円墳があった。これも異存はない。

でもそれはブームですよね。それは終わってしまったのですよね。だからブームが終われば大和政権も終わってしまうはずですよね。

しかし、実在が確認される最古の大和政権である飛鳥王朝は、前方後円墳ブームが終焉すると同時に姿を現している。これって変じゃないですか。

2.「弥生時代にはそれぞれの地域で各種の 墓制が発達した」

というのは不勉強でよく知りません。どちらかと言えば丸か四角かという二系統に大別されるのではないかと考えていました。

それが時代が下るとともに大型化していったことは理解できます。しかしそれはあくまでも墓でした。全長100メートルの巨大古墳というのは前方後円墳の時代になって突然出現していて、墓の概念を超えています。そこに何らかの断絶を見るべきではないでしょうか。

秦の始皇帝クラスならともかく、地方の豪族にすぎない身分の人間には身分不相応です。

私は墓プラスアルファの意味が付け加えられたのだと思います。すなわち残土処理です。

3.「前方後円墳は、これらを受け継ぎ、各地の墓制・祭式を再編する形で三世紀中頃に創出された」

これは思い切った大ボラです。ホラというのはウソではなく、「根拠は皆無だが事実を持って否定し得ないような作り話」の意味です。

この時期に前方後円墳が流行り始めたのは事実です。しかしそれをもって、「各地の首長を垂直統合するようなスーパーパワーが出現した」と言い立てるのは、限りなくウソ臭いのですが、否定はできません。

とりあえず無視して先に進みましょう。

4.前代までの地域社会の枠を越えた政治的関係が生まれ、国家的な歩みが始まった。

原理主義者には往々にしてこのような論理の飛躍がある。水田が山の端の扇状地に点綴しているような景色から、見渡す限りの平らで広々とした水田に変わると、既成の地域社会の枠は当然乗り越えられる。

そこまでは良いのだが、それが「国家的な歩み」になるにはまだ早い。「国家」という言葉を使いたいのであれば、せめて「部族国家」とか限定的にいうべきでしょう。

さらに「国家」を云々するのであれば、「国家」の発生、すなわち既成の地域社会の枠が(国家システムとして)どのように乗り越えられるのかを、水利権を中心にもっと緻密に論じなければなりません。ムラムラの川が下流で一つとなるように、ムラムラも敵対的エピソードをはさみながら合同していくことになるでしょう。

5.前方後円墳は、古墳時代を通じてもっとも最上位に位置づけられた墳形である

これも明らかに違う。最上位というのは「程度問題だ」という前提に立っているが、前方後円墳は突然出現したスーパー・トゥームであり、墓の概念を越えたものでしょう。

だからブームとなったのです。「隣の谷でやったんならうちもやらにゃぁなるまいな」という具合です。昭和のバブル期に各市町村が争って立派な市役所や公民館を建てた風景を想像すれば当たらずとも遠からずではないでしょうか。

6.前方後円墳を筆頭に各種の墳形や規模によって、ある種の身分秩序が表現された

見てきたようなホラ話です。

7.古墳時代とは、この秩序を主導した倭王権という中央権力が各地域の有力者をおさえ、格差を拡大していった時代である

もうハチャメチャです。開いた口が塞がらないというのはこういうのをいうのでしょう。



これだけ悪口を書いてしまうと、あと読む気がしなくなってしまうが、ことは重要なのでもう少し勉強させてもらうことにする。

二 前方後円墳の政治性

前方後円墳の築造は、特異な形式の墓制が文化的風習として全国的に広がったというものではない。

西嶋定生によれば

① 弥生時代の墓制との差である。前方後円墳は突如出現して地域的伝統が断ち切られる形で現れる。その背景には外部からの強い力が作用しているだろう。

② 前方後円墳のほかに前方後方墳や円墳・方墳もある。そこには被葬者の身分的な差を表現する意味があった。

③ 前方後円墳の形態は古墳時代を通じて各地でおおむね共通している。これはその形態が各地で追随されるような性格であったことを示す。

このうち②の後半に対してのみ異議があります。しかし反論するだけの材料は持ち合わせていません。「外部からの強い力」というのも、それが抑圧的であることを示唆するのなら、必ずしも同意できません。

 西嶋は、こうした点から、古墳の築造が一元的な規範の下に、身分的表現として営造されたと理解し、これがこの時代の国家構造といえるものであるとする。その本質は、地方首長と王権の中核を構成する諸氏族との開に擬制的同族関係を設定することによって、ヤマトを中心とする族制的体制に包含することにあるという。

ずいぶんとなまずるい言い方です。国家というならそれは支配・被支配の構造であり、「擬制的同族関係」をとろうととるまいと、力による押しつけということになります。 

それは同祖として意識される族的関係であり、祖先祭祀を通して維持されるものであるから、そのために共通の祭式をとる墳墓形式が生み出された。それが前方後円墳の成立の由来だ。

粘着的規定だが、つまりは大和政権が諸氏族を支配するための国家イデオロギー装置だということでしょう。言い方は慎重ですが中身は乱暴です。①も③も論拠にはなりません。論拠といえば②の後半のみです。

各地の古墳群の推移をたどると、前代に大きな前方後円墳を築きながら、次の世代では小型化し円墳や帆立貝形になっている。そこには前方後円墳の築造を規制する力 が働いている。(という小野山節の指摘はきわめて重要である!)…都出比呂志は、このような墳形と規模によって示される身分秩序を「前方後円墳体制」とよんでいる。

おぉ、ものすごい「仮説」だ。西暦500年以降、前方後円墳が激減し消失したのは大和政権の指示によるものだったのです。

以下省略