前方後円墳を唯一の論拠として「古墳時代」を組み立てる原理主義者に反論しようとするなら、それは結局、「ものごとを総合的に評価して判断しよう。最大の生産力としての人口、生産用具や武器(つまりは鉄)の利用水準、水田づくりの土木技術などをまず評価しながら、前方後円墳をその歴史段階の一特徴として限定していこう」ということになる。
しかし彼らにはそれしか論拠がないのだから、あくまでも前方後円墳至上論で迫ってくる。困ったことに私もこれを直接に否定する根拠はない。

そこで、私としては大胆な仮説を立ててみたい。

1.前方後円墳は円墳の一つ

その一つは、前方後円墳はテラス付きの円墳だという仮定である。

すなわち前方後円墳の文化は円墳文化の延長上にその一つの発展形としてある、ということになる。

なぜそれを強調するかというと、方墳文化と前方後円墳文化は相容れないものの可能性があるからである。

鳥取の妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡という2つの遺跡の勉強をしてきて、同じ県内にありながら2つの遺跡が相容れないものだということを痛感する。妻木晩田は山の頂に要塞群として建てられ、膨大な鉄製品を持っていた。青谷上寺地は潟の入江に面して水田耕作を営み、朝鮮半島をふくむ後半な地域との交易を進めていた。そして平和な港はある日突然外敵に襲われ集団虐殺された。そして山城からは方形墓が発掘され、港からは銅鐸が発掘された。

あまり敷衍はしたくないが、近畿で500年を境に前方後円墳が急速に衰退に向かう。それに代わって6世紀後半に起ち上げられた飛鳥王朝(蘇我執権体制)においては、王墓もふくめて方墳となっていく。

2.巨大古墳は灌漑の残土処理

いろいろな人が、「前方後円墳はピラミッドよりも大きい」と自慢している。王権の強大さの象徴としてみている。

わが歴史学者たちも素直にそれを信じ、それを前提に「これだけの強大な権力を持っていたのだから、日本全土を支配していたとしても不思議はない」みたいに話を持っていく。

しかし、前方後円墳以外に時の権力の強大さを示す証拠はあるのか。たんなる大きさの問題ではない。いくら大きくてもただ土を積み上げたものにすぎない。5千年前のエジプト王朝ほどに権力があったとは到底思えない。それどころか九州北部と比べても、例えば鉄器の出土数においては雲泥の差だ。

ピラミッドは数十年に一つ作るのがやっとだったが、近畿ではホイホイと作っている。

王権の威勢を示すためにだけ、これだけのものを作っていたのでは民衆は死に絶えてしまう。その前に命がけで反乱を起こすはずだ。

「民のかまど」を心配するほど博愛心旺盛な仁徳天皇が自分のためにだけ、あのようなでかい墓を作るだろうか?

だから私は、前方後円墳であろうと別の形の墓であろうと、それだけの目的で作ったのではないと思う。

大胆すぎる仮説だが、巨大古墳は灌漑工事を行った際の残土を、ついでに「墓」にしてしまったのではないのだろうか。だから灌漑工事が大規模であればあるほど「墓」も大きくなる。炭鉱のボタ山と同じだ。

民衆も王様の墓づくりであれば「もういい加減にせぇよ」というが、新田の開拓だと納得すれば毎年でも頑張る可能性はある。

3.前方後円墳は灌漑・土木技術とセットで全国に広がった

仮に全国から前方後円墳を視察に来たとしたら、どう思うだろうか。権力に近い人であれば墓としての大きさに感動したかもしれない。下っ端の現場技術者であれば、前方後円墳の周囲に広がる豊かな水田と規則正しい水路に感動したかもしれない。政治家であれば、「ウムこれは一石二鳥のうまい手だ」とこぶしを打つに違いない。

こういうウィンウィンのノウハウは瞬く間に広く浸透していくのではなかろうか。

だから近畿より東への拡大は全く問題ないだろうと思う。ただし九州だと古来からの伝統に則った墳墓の制はあるだろうから、そうかんたんなものではないだろう。また、鳥取の要塞集落のように方墳でやっている人々には蛮習と映るかもしれない。

4.生産量増大に伴う人口爆発

弥生前期から中期にかけて、北九州では人口爆発が確認されている。これは水田耕作が高い生産性を持つとともに、きわめて労働集約的な生産様式であることにもよる。

ただそれは以前沢の水を引いて扇状地に流し込む形態が主流であった。しかし大和盆地には湖がありその周辺に広大な湿地帯が広がっていた。ここに排水溝をめぐらし水田とするためには大規模な土木工事が必要であった。

ある日それを手に入れた人々は、膨大な手間を掛けてそれを成し遂げた。大和に最初の文化が成立した最大の理由はそういうことだったのだろう。

大和盆地の干拓事業を成し遂げた人々は、「産めよ増やせよ」で子孫を増やしつつ盆地全体を美田に変えた。それが完了した瞬間に開拓可能な辺境は消滅し、「産めよ増やせよ」システムは人口圧と化した。

彼らは河内に進出し河内湖の干拓をはじめた。

大和湖と河内湖の干拓が完了する頃、そこにはとてつもない数の人々が水田をもとめてひしめくこととなった。

この人口という生産力は鉄という武器を持つ北九州人さえ凌駕するほどのものとなった。「長江文明」の逆襲である。

彼らは近畿を飛び出して山陽道を西へ、東海道を東へ、北陸道を北へ、その干拓技術を持って一斉に飛び出していくこととなった。それは明治初期の二宮尊徳や栗原明善の農業技術普及運動を想起させる。

軍事支配(あるいは、そのノウハウ)がそれについて広がって行った。

それが前方後円墳という形で各地に残されているのではないか。