北海道立図書館の中にある北方資料室がホームページを立ち上げており、その中に樺太観光交通鳥瞰図 [1935年] / 樺太庁, 1935 という写真が載せられている。
もちろん、そこに行って見てもらえば一番いいのだが、とりあえず紹介ということで転載させてもらう。
わずか40年だけ存在して、なくなってしまった地方。なくなってからもう70年も経ってしまっているのだが、そこにあった「日本」を思い浮かべるのは何かしらワクワクさせられる体験である。
樺太鳥瞰図01
ここが樺太の南端である。最上徳内や間宮林蔵たちはみな、稚内から小舟に乗って白主(しらぬし)に上陸した。そこからおそらくは小舟をあやつりながら北へ、北へと向かったのである。
樺太鳥瞰図02
やがて船が大きくなると、ただ近いというだけで何もない白主ではなく、大泊に本格的な基地を建設するようになった。夏の間だけの漁やアイヌとの取引の対象ではなく、通年居住するようになったのは明治に入ってからである。その時すでにロシアも大泊(コルサコフ)に進出していた。
最初の数年間の間にいくつかの施設が作られたが、千島・樺太交換条約によって日本人は引き揚げる。この時同時に樺太に先住していたアイヌも強制的に北海道に移住させられる。私の勤務先である江別に移住したアイヌ人の多くが慣れぬ生活に体を壊し、亡くなったと伝えられている
日露戦争後は一気に日本人移住者が増えた。稚内と大泊を結ぶ稚泊航路が開かれた。この鳥瞰図にも関西空港みたいな立派な出島が作られたようだ。稚内港の埠頭は今でも観光名所となっている。
樺太鳥瞰図03
樺太は行政的には色々変遷しており、この見取り図の頃は北海道と同様に県並みの扱いとなっていたようだ。その県庁所在地は大泊から少し内陸に入った豊原に増設された。おそらくは艦隊からの直接攻撃を避けるためではないかと思うが、真相は知らない。
札幌ほどではないが計画的に作られた町で、廳舎を中心に碁盤目の街路が形成され、背後の旭岳山麓には樺太神社が造営された。
戦後樺太を接収したソ連はこの街をユジノサハリンスクと名付け、在来施設をそのまま使用した。「濡れ手に粟のボロ儲け」だが、こういう不労所得は結局は役には立たないものである。
樺太鳥瞰図04
西海岸は山が迫って街を作るほどの土地はないのだが、対馬海流が流れるため比較的温暖で冬も凍らない港があリ、多少のスペースさえあれば街が発達した。本斗には稚内からの定期航路が走り、そこから北に鉄道が延びていった。中でも最大の街が眞岡で、最大時の人口は1万9千人を数えた。
行啓記念碑とあるのは大正年間に昭和天皇が摂政として訪れたことを意味する。札幌にも行啓通というのがあるから一連のものであろう。
映画「氷雪の門」(底意の感じられる後味の悪い映画)で有名になった電話交換手の集団自決事件はこの街を舞台としている。
樺太鳥瞰図05
豊原から北国境線までを鳥瞰したものである。向こう側の半島のくびれたところまで行って、間宮はこの先見通しないと判断して戻った。そして西海岸に出て間宮海峡へと向かった。いま思えば賢明な判断であった。
向こう岸の左端にあるのが敷香(しくか、しすか)の街である。人口は3万を越え軍事施設の他に王子製紙の工場もあった。この街を越えれば後は原野の北に国境線がある。昭和13年の正月、岡田嘉子と杉本良吉が国境線を越えたのもこの街を経由してからであった。(と思われる)
樺太鳥瞰図06
西海岸には最北端の街恵須取があった。エストルというと何かロシア語っぽいがアイヌ語である。ここにも王子製紙の工場があったほか炭鉱もあったことから人口は3万1千人に達し、敷香とならぶ大きな街であった。
しかし樺太西線はまだ到達しておらず、陸の孤島に近い状態であった。
もう少し資料を足していくつもりだが、とりあえず一旦これでアップロードすることにする。

2015年09月16日

2015年09月15日