九州の前方後円墳について書かれた論文を見つけました。実証的な研究で説得力があるのですが、残念ながら絶対年代について触れられていません。

様式的に10期くらいに分けて相対年代が提示されています。おそらくこれは近畿の古墳の時期分類だろうと思われ、間接的に紀元250年(箸塚古墳)から500年位の時期を想定しているものと思われます。

前方後円墳史観は近畿中心史観であり、邪馬台国畿内説と符節をあわせていると思われ、飲み込みにくいのですが、そこにふくまれている基礎的事実は受け入れざるを得ません。

「古墳様式だけが時代のメルクマールではないぞ」とつぶやきつつ、とりあえず受け止めておきたいと思います。


   九州地方における前方後円墳の分布

一墳丘の規模と内部構造・副葬品の時期別分布を中心にー

         出田和久

1。はじめに

古墳時代には日本列島の主要部にほぼ統一的に政治的影響力を有する大和王権が成立する。

そしてその影響力の及ぶ地域には前方後円墳という独特の形式を有する墳墓が多数造営された。

前方後円墳は墳墓の1形態であるが、この独特の形態を有する墳墓がほぼ本州から九州にまで広く認められることは、その背後に政治秩序の一元化が表されている。

と書いた上で、「石室(石槨)等の構造や棺の形態や材質、さらには副葬品等に地域の伝統や特色が反映されている」とみて地域別の特殊性を考察しようとする。

2。九州の古墳文化と地域性

 2-1.九州の古墳文化

 近年九州の各地域における発掘調査の進展により、各地域の特色をある程度明らかにすることが可能となった。

たとえば筑後川中流部には石室奥壁を中心に彩色の同心円文を描く古墳が多くみられ、菊池||中流域では彩色・彫刻ともに豊かな装飾古墳が集中し、八代海沿岸では彫刻による装飾が多く見られる。

このような地域にも密度に差はあるものの、畿内の政治勢力の浸透にともなって、前方後円墳が九州においても造営された。

豊前の周防灘沿岸から筑前の玄界灘沿岸にかけて古いものがみられる。その内部構造についてはそれぞれ箱式石棺、竪穴式石槨、粘土槨と様々である。

箱式石棺は九州の弥生時代以来の伝統的な葬法の影響を強く受けたものであり、竪穴式石掛や粘土槨は畿内型の古墳文化の影響が強いとされる。

3。九州における前方後円墳の時期別分布

 3-1.時期別分布と墳丘の規模

九州地方における前方後円墳lを時期別・規模別に見ると、1期の古墳は周防灘から玄界灘の九州北部沿岸か沿岸に程近いところに多くが分布する。

被葬者は周防灘沿岸の豊前地方に上陸し、大和王権の橋頭堡を築いた人物ではないかと考えられている。

前方後円墳の分布が拡大し、壱岐・対馬の島嶼部をはじめ九州北部では遠賀川流域や有明海南部の宇土半島基部及び島原半島、さらに南部の宮崎平野中部の西都原古墳群等におよぶ。

終期には前方後円墳の数が減少するとともに100mを超えるものが3基と少なくなる。

そして筑後の岩戸山古噴(墳長138m)が掉尾を飾る事となる。

 3-2.内部構造と内部主体

 3-3.副葬品

②馬具類と武器類  馬具類は50基から出土しており、北部九州に偏在している

国別に見ると筑前21基、肥前8基、肥後9基がおおい。大部分が後期古墳からの出土である。鉄剣、鉄刀には顕著な傾向は見られない。

4。おわりに

 前方後円墳の規模についてみると、中期にかけての大型化が認められ、その後規模の両極分化の傾向が現れ、最後には小規模化が顕著になる。このような動向は九州と近畿地方でほぼ並行している。

注より

広瀬和雄は「領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、大和政権に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家」と呼んでいる