以前(2014年12月09日)

という記事を書いている。以下抜粋すると

以前、大和・河内の古墳について調べたことがあって、300メートル以上というのが7つある。30傑の一番下がちょうど2割、200メートルだ。

それで、横罫に土地、縦罫に年代という風にして表を作ってみた。

奈良盆地北部

奈良盆地南部

河内・摂津

3,4世紀

★★★★★

★★★★★★

★★

5世紀

★★★★★★★

★★★

★★★★★★★★

6世紀


表を作ってみて気づくのは、箸墓以降古墳の中心だった奈良盆地南部(桜井近辺)が、紀元400年を境に凋落していることである。

これに代わるものとして河内が興隆する。墳墓の地をそう簡単には変えないという前提に建てば、纏向に続く盆地南部王朝は没落したと見る他ない。

もう一つは、西暦500年を境にして巨大古墳の築造がピタッと止まることである。奈良盆地の南北、河内のすべてが全滅するのである。(引用ここまで)


大和盆地の南西に蘇我氏とともに「飛鳥王朝」が成立するのはおよそ550年以降のことである。そこには断絶があるのである。

だから記紀的観点から言えば、前方後円墳など大和朝廷からすれば「関係ない」のだ。飛鳥王朝の前身となる継体天皇は、その頃はまだ淀川近辺をさまよっていたのである。

歴史書を見ると大規模な前方後円墳を作った勢力こそが全国制覇を成し遂げ、朝鮮半島南部まで進出し、大和朝廷へと成長していったみたいに書いてある。

時代区分も弥生時代→古墳時代→奈良時代となっていてあたかも連続しているかのように語られているが、考古学的事実から見ればそれは明らかな誤りではないか。

とすれば、我々は「銅鐸人」を想定したように「前方後円墳人」を想定して、その盛衰史を描き出さなくてはならないのではないだろうか。