なぜこんな原始生命体のところまで迷い込んだかというと、勢いというか、事のついでである。

シアノバクテリア(藍藻)を勉強した時点で、基本的に目標は達していた。

生物論をはじめたときに、最初から大独断をぶち上げた。

植物なくして動物なし

という「テーゼ」である。

つまりまずは自立栄養でやれる集団がたくさん発生して、そこから従属栄養の動物が発生してくるという発想である。

従属栄養生物である動物は、植物をもとめて移動しなければならないという宿命を背負って登場してくる。

だから動物は発生の当初から神経系と運動系の器官を持っていた。そして特定の器官というわけではないが、主体性というか自己責任をもとめられた。

ついで、動物の中にも食物連鎖が発生する。おそらくそれは縄張り争いが起源で、それが縦関係に変化発展したのだろうと思う。

いずれにしても弱肉強食関係が出現したわけで、そこを生き抜くために動物は第二段階の能力を身に着けなければならない。

それは自分より弱い相手を捕まえ食べる能力と、自分より強い相手から逃れる能力である。

かくして神経系と運動系は感覚系・反射系も具備する形で強化される。

ただこれらの個別的努力だけでは、所詮身を守ることはできない。ここで第三段階の能力が発現する。

これを一つのものにまとめることは難しいが、大型化、多産化、そして集団化である。大型化には多細胞化もふくまれるかもしれない。

これらの獲得された能力が動物の特定の種の発展や衰退を条件付けている。

こういう大枠の中で神経系の発達も捕らえていかなければならない。これが「植物なくして動物なし」というドグマの発展形である。

ずいぶん前書きが長くなってしまったが、そもそも植物の繁栄が動物の繁栄を準備したという歴史的事実がなければ、以上の話はただの大風呂敷である。

はたして生物界の歴史にそのような事実があったのかというと確たる証拠はない。

とすれば単細胞生物・細菌の世界までさかのぼってそのような事実は確認できないだろうかというのが、古生代前の勉強を始めたきっかけであった。

そしてそれはシアノバクテリアの発見で一つの落とし所となったと思える。

2つの事実がある。

一つは単細胞の細菌とはいえ、光合成装置を備え、「植物」的な働きをする生物だということである。

もう一つは30億年前以降、大繁殖を遂げて、地球上の酸素を一気に増やすほどの活躍を行ったことである。

だから「植物なくして動物なし」はこう言い換えたほうが良いのかもしれない。

藍藻なくして動物なし