我が家のテレビのハードディスクは嫁さんの韓流ドラマで満杯だが、ときどき変な番組が録画されている。

金曜の夜、嫁さんが寝た後、それを消していくのが「儀礼」なのだが、今回は思わず見入ってしまった。

終わらない人 宮崎駿

という番組。

アルコールも効いてきて、ところどころ居眠りしては見るという有様だったが、後半に来て俄然眼が覚めた。

あらすじを語ることは到底できないので、「番組紹介」から引用することにする。

3年前、突然引退を宣言したアニメーション映画監督・宮崎駿さん。世捨て人のような隠居生活を送り、「もう終わった」と誰もが思っていました。でも実は終わっていなかったのです。手描きを貫いてきた宮崎さんが、75歳にしてCGで短編映画に初挑戦。それは長年夢見た幻の企画でした。新たなアニメーションとの格闘を繰り返すなかで、下した大きな人生の決断!「残された時間をどう生きるのか」。独占密着!知られざる700日

というのがあらすじだが、どうも私の感じたのは「老い」とか「残された人生」というのではない。

それはもっと激しいものだ。

CGという表現手段を相手に一種の「異種格闘技」をいどみ、その中でCGの「真の限界」を知り、さらにその根底にある「CGイズム」を峻拒しつつ、自ら歩んできた道の正しさを確認していく作業である。

そのうえで、宮崎さんは新しい長編づくりへの挑戦を宣言するのであるが、それはおそらく主要な問題ではないだろう。その決意に到達するまでの意識の高まりの過程こそがもっとも重要だ。

だからある意味ではこのドキュメンタリーそのものが、宮崎の作品でもあると思う。

1.CGは作品に命を吹き込めない

正確には、「これまでのCGでは」言ったほうが良いのだろう。多分、そのことは宮崎さん自身もそう感じていたから、手書きにこだわってきたのだろう。

ただ、CGはあくまでも技法であり、原理的にはCGだから命を吹き込めないことはない。あくまでも作者の側の問題であるはずだ。

宮崎さんは、この論理と実感の間隙を埋めたくてCGづくりに取りかかったのだろうと思う。「この宿題を解決して置かなければ死ねない」みたいな感じだろうか。

ドキュメンタリーの前半ではこの過程がかなり長々と描かれていく。結局、絵そのものへの介入はすべて失敗に終わる。

それはある意味ではこれまでの作家人生を通じての実感の再確認であったのかもしれない。

それがある日突然ブレイクスルーがやってくる。「そうだ、魚を描こう」

魚が泳ぎ回る世界がまずあって、そこに主人公が登場することで世界はまさに「水を得た魚」のようにいきいきと動き出す。これがひとつ。

もう一つは、その環境に対応する眼差しや体の動きが意味を持つようになる。自然になるというのは、演技でも仕草でもない。そうさせているものとの関係において自然なのだ。

CG(CGイズムというべきかもしれない)は自らの枠の中にすべてを押し込もうとする。自然さえもだ。

しかしその瞬間に生命というものは消えてしまうのではないか。

2.「生きとし生けるもの」としてのいのち

いのちを絵の形であろうと言葉の形であろうと、絡め取りたい、すくい上げたいというのは人間の欲望である。

私は紀貫之の言葉を想起する。「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」

古今和歌集の序文である。

この場合の「生きとし生けるもの」は作家としてのいのちである。それは主体であるとともに、花鳥風月に刺激を受ける受動態としてのワタシである。

そして花鳥風月を描くことによって、それらに生き生きとした能動性を与えるのもワタシだ。そこにはいのちの交流がある。

それと同じように、鶯や蛙も周囲の自然とのいのちの交流の中で輝いている。この二重の交流を画像の中に込めなければならない。

おそらく宮崎さんはCGという苦難の道に踏み込むことで、そのことを別な表現、「魚を描き込むことで主人公に命を吹き込む」というかたちで、難関を突破したのであろう。

3.CGイズムとの闘い

CGというのは表現技術の一つである。しかしほとんど無限の可能性を秘めた表現技術である。

あまりにも急速に革新されているために、技術の高度化がある程度自己目的化されるのもやむを得ない。技術にはそういうところがある。そういう時期なのだ。

だがCGの発展が集団の中で自己目的化されると、そこには独自の哲学が生まれてくる。「CGイズムとCGそのものは分けて考えなければならない」と言っても、実際にCGに携わっている人が共通してそういう言語体系をもってしまえば、一般社会との垣根はますます高くなっていく。

宮崎さんのCGへの取り組みは、CG屋さんの持つそういうイデオロギーとの闘いを抜きに実現し得ない。

CG屋さんは子供の頃宮崎さんのアニメを見て育ったはずだ。宮崎さんは尊敬の対象だ。にも関わらず彼らの言語体系は揺るがない。それとこれとは別なのだ。

これは一見動かしがたい矛盾のように見える。

しかし、宮崎さんはそこに風穴を開けたように一瞬思えた。

それが「いのちと交わり、いのちを紡ぎ出すこと」ということなのだろうと思う。

番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

CGはリアルになればなるほどシュール・リアリズムになる。もちろんそれ自体が悪いと言っているのではない。技法の追求は絶対必要だと思う。ただシュール・リアリズムは行き止まりであって、出発点にはならない。

そこからはいかなる物語も紡ぎ出せない。宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

ところで、宮崎さんがふと鼻歌で歌った「民族独立行動隊の歌」が耳に残る。60年安保の世代なのであろう。

 


こちらのページには別の人が書いた番組紹介がある。

こちらを見たら宮崎さんはもっと憤激するかもしれない。

クールジャパンの基幹コンテンツと期待されながら、国際的にはピクサー、ディズニーらのCGアニメに圧倒されている日本のアニメーション。宮﨑が世に放つ短編は、日本アニメの未来を変える一手となるのか。

こちらはCGオタクではなく、脳ミソがソロバンになっているエコノミック・アニマルだ。