「弥生時代」という時代区分の虚しさ

なぜ、「弥生時代」という無意味な命名がかくも長きにわたり学会を支配しているのか分からない。

それは土器の名称に過ぎず、しかも東京本郷の東大の近くの弥生町で最初に発見されたからと言うだけだ。一つの時代を表現するのにこれほどナンセンスな名称はない。

それだけではない。弥生時代という名称にこだわる限り、時代の終わりを特定できないのである。だから概念がまったく異なる古墳の出現という事態をもって、強制終了させるしかないのである。

ところが、この「終わりを画することができない」という事情は、他の多くのパラメーターをもっても解決できない。

例えば稲作文明とか水田文化と言っても、それは現代まで連綿と続いており、終わりを画することはできない。鉄器文化と言ってもその弱点は解決できないのである。

「銅鐸時代」こそが時代を表すキー概念

ところが、銅鐸の流布とその突然の中断こそは時代のはじめと終わりを象徴している。

それは日本における長江人文明の優越の時代と、その終焉を意味しているからである。

鉄を持たない長江人は漢民族に中原を逐われ、逃れた先の朝鮮半島からも北からの民族に逐われ、さらに逃れた先の日本で銅鐸文明を花咲かせたが、それも天孫族に破壊されてしまう。それが弥生時代の本質である。

弥生時代はいかに始まったか

弥生時代を水稲栽培と重ねて、ずいぶん昔まで遡らせる議論がある。前史としての陸稲“栽培”までふくめると、紀元前2千年まで遡らせる意見もある。

しかしそれは晩期縄文時代の存在を否定することになる。陸稲“栽培”は、もしそれが本当だとしても、渡来した長江人によるものではなく、古来から日本に土着した縄文人、によるものである。

Y染色体でいうと、晩期縄文人というのは北からやってきたB系人と朝鮮半島から渡来したC系人(少数派)の混住・混合である。

人口比率から言えば北方系が圧倒的に多いのだが、C系人も西日本を中心に無視し得ない比率を占めている。

この晩期縄文人は朝鮮半島と頻繁に交易し、半島に逃れてきた長江人とも接触した。

そして水田技術を買い、長江人を北九州に招聘した。半島の長江人は北方人の圧迫もある中で多くが九州に移住した。

九州北岸の遺構を見るとそれは紀元前500年ころ(三韓の成立)を一つのエポックとしている。

たしかに弥生時代の始まりにおいて、銅鐸は必ずしも重要な役割を果たしているとは言い難い。

しかしそれも「弥生時代」の本質的特徴をなすのである。


弥生時代前期は長江文明と縄文文化の融合

九州北部への長江人の植民は平和裏に行われ、混住・混血が盛んに行われた。それはおそらく当時の朝鮮半島南部においても同様であったろうと思われる。

なぜそれが可能であったか、それには経済的要因と地政的要因があったと思う。

経済的には長江人の水田耕作と縄文人の採集・漁労生活が住み分け可能で、ウィン・ウィンの関係にあったからだ。地政的には縄文人の側に長江人を受け入れるだけの通交の経験があったからだ。だから受け入れ側の縄文人は長江人を排斥しなかった。

生産性から言えば水田耕作のほうがはるかに高いが、それは労働集約型でもある。食わせる能力から言ってもそのために必要な労働量から言っても、長江人の人口は急速に増加することになる。

かくして、紀元ころには縄文人と長江人の人口は匹敵するようになり、ここに両民族の統合としての“原日本人”が出来上がることになる。

シンボル宗教としての銅鐸信仰

長江人は縄文人の伝統や社会の枠組みを尊重しつつ徐々にその数を増していく。そして平野部では人口の多数派となっていく。その象徴となったのが銅鐸を寄るべとする信仰だった。

銅鐸はもともとカウベルのようなものだったらしい。長江流域の原長江文明において、すでにその存在が確認されている。朝鮮半島でも、彼らが生息していたであろう地域から小型銅鐸が出土している。

縄文人といかに混交しようと数千年の歴史を持つ銅鐸信仰を捨てることはできない。だから長江人(農耕民)が各地で多数派となるにつれ銅鐸信仰は復活し、隆盛していく。

ここからある意味では「真の弥生時代」が始まるのである。

銅鐸文明の発生と興隆の経過については、私の前の記事を参照されたい。

銅鐸の広がりは、水稲栽培と長江人の支配の広がりを意味する。銅鐸は東に行くほど、時代が下るほど大きくなり、聞くものから見るもの変化していく。劇場型宗教への転化と言える。

シャーマニズム集団の侵入

縄文人の信仰は森羅万象への八百万的なアニミズムである。これに対し、銅鐸の音を聞きながら参加者が土地の恵みへの思いを同じくするというユニバーサルな信仰スタイルは、究極的なアニミズムであり、十分にシンボル的である。

同時にシンボル宗教は柔軟であり、原始的なアニミズムとの共存が十分に可能である。

しかし世の中が剣呑になってくると、民衆は抽象的なシンボルに飽き足らず、教祖をもとめるようになる。

それが外来者集団として侵入した場合、情勢は激変することになる。それが「天孫族」集団だ。

彼らはたんなる海賊集団ではなく「十字軍」のいでたちで攻め込んでくる。彼らの使命は邪教撲滅と異教徒の抹殺だ。だから容赦がない。

彼らは九州・出雲を征服した。そして銅鐸を片っ端からぶち壊した。銅鐸文明を破壊した。

これにより弥生時代は終焉を迎え、シャーマニズムの時代としての「古墳時代」が始まっていくのである。

天孫族の2つの系統

青谷上寺地遺跡からはっきりしたのは、紀元150年から200年にかけての「倭国大乱」の時代に出雲で起きた現象が天孫族による銅鐸人(長江人を中核とする弥生人)の駆逐だったということだ。

前後関係から見れば、これを実行したのは同じ天孫系でも九州のアマテラス系(百済起源)とは異なるスサノオ系(新羅起源)だったということになる。

彼らは、その後の数十年の間にアマテラス系に出雲を譲り、越前から大和に入り纏向政権を樹立したことになる。かなり忙しい話だ。妻木晩田を出雲政権とする説とも矛盾する。

この辺については、今後とも銅鐸を手がかりにしながら、現場にあたっていこうと思う。