今朝の赤旗で「むきばんだ」という遺跡があることを初めて知った。

妻木晩田と書いて「むきばんだ」と読む。巨大な弥生集落跡だそうだ。

まずはウィキから。しかし工事中で、まだ記載は乏しい。

鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡。
遺跡の面積は156ヘクタールにもなり、吉野ヶ里遺跡の5倍にもおよぶ。

こんなに大規模な集落なのに、私が名前も知らなかったのは、私の浅学のためでもあるが、発見が新しいためらしい。

この時期の弥生遺跡というと、どうしても邪馬台国との関連ということになる。それ以上に私にとって興味深いのは、それが銅鐸文明なのか天孫系なのかということだ。

もし天孫系とすれば、それは出雲(スサノオ)系なのか、出雲系を追い出した九州王朝(アマテラス)系なのかということも気になる。

どこにあるのか

グーグル地図ではこの辺だ。米子の東郊外、大山の山麓ということになる。

むきばんだ

鳥取県の教育委員会のサイトに妻木晩田遺跡のページがある。ここの紹介から読み始める。

拡大図

晩田というのは遺跡のある丘陵地帯を地元で「晩田山」と呼び習わしているところからつけられた名前で、谷で区画される6つの丘陵で構成されている。妻木というのは、その中の一つの地区の名称のようだ。遺跡は妻木地区を越えて広がっており、晩田遺跡といったほうが適当ではないかと思うが…

この地図の洞ノ原地区西側丘陵から西方を眺めたのが下の写真で、美保湾越しに米子の市街地と弓ヶ浜半島が遠望される。

Mukibanda_remains_western_hill_at_Donohara_area

発見から遺跡指定に関わる記述は、ここでは省略する。

遺跡の概要

標高100メートルの集落で、環濠をめぐらしていることから、吉野ヶ里と同様に平和的な集落とは言い難い。

ただウィキでは倭国大乱と関係と書いているが、かなり長期にわたり生活が営まれていたので、むしろ弥生後期の集落の一般的特徴といえるのかもしれない。

遺物としては土器、石器、鉄器、破鏡が出土している。大陸性のものも確認されている。

ということだが、これだけではなんとも言えない。

教育委員会のサイトではかなり細部が書き込まれているが、その分、こちらも慎重に読んでいかなければならない。

最近の発掘動向

妻木晩田の最近の状況が下記のニュースで分かる。

2016/7/26 のニュースだ。

見出しは「吉野ケ里の3倍の巨大集落 突然の消滅と「弥生」の謎」というもの。

内容はかなり盛り沢山で、頑張って書いた記事だ。

以下、箇条書きにしていく。

1.大規模な墳丘墓が発見された。仙谷8号墓と仙谷9号墓で、古墳時代前期初頭の築造とみられる。

2.集落はこの墳墓ができた後間もなく、突然消滅した。戦闘があったという証拠は見られない(西暦250年前後と見られる)

この後、古墳屋さんのうんちくが長々と続くがあまり興味はない。

3.すべての集落に「鉄器」が豊富に普及していた

4.鉄器と併存して多くの「有溝石錘」が発見され、この集団が操船技術を持っていたと推定された

以上のことから、妻木晩田の住民は北方→朝鮮半島由来の集団と想定される。私の言う天孫族である。

集落の発生が西暦0年ころまで遡ることから、新羅から渡来したスサノオ系天孫族ではないかと考える。

(銅鐸は絶対に出土しないと確信する)

遺跡の生きていた時代

時期的には弥生時代中期末(西暦1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)とされている。大まかに見て、西暦50年から250年の間と想定される。

50年というのは志賀島の金印が発見された頃であり、那国(奴国)を中心とする北九州連合が確立した頃だ。250年というのは魏志倭人伝で、卑弥呼の邪馬台国が魏と通交した年だ。

その間に倭国大乱があり、「出雲の国譲り」があり、銅鐸文明が破壊された。

そして、その20年後くらいに大和盆地に纏向政権が成立している。

西暦50年から250年の間に集落はその姿を変えており、それは考古学的にかなり細かく区分できるようだ。

西暦1世紀前半(弥生時代中期末) 妻木晩田遺跡に人々が住みはじめる。

西暦1世紀中頃(後期初頭) 洞ノ原西側丘陵に環壕形成。洞ノ原東側丘陵に四隅突出型墳墓群が形成される。要するに要塞が形成される。住居群はそれより東の別の丘陵に形成される(そのほとんどが山の頂や尾根沿いに作られる)。

西暦2世紀後半(後期後葉) 遺跡が最盛期を迎える。住まいの範囲は遺跡全体に広がる。それぞれの部落は3~5棟を1単位とする集団(クラン)を成す。

この時期をさかいに、妻木晩田のムラは少しずつ衰えていき、古墳時代の初め頃には住まいがほとんど見られなくなる。

つまり、敵がいなくなってこんな不便なところに暮らす必要がなくなり、平地に降りていったのか、それとも敵に追いやられて逃げていったのか、ということだが、おそらくは前者であろうと想像される。

いずれにしてもこの集落の住民たちは、150年以上にわたって周辺の人々と厳しい対峙を続けたことになる。