本日の赤旗家庭面で、「昭和とパンの話」という連載の4回目が気になった。

著者は「昭和のくらし博物館」の小泉和子さんという方。

今回の内容は戦後の食糧援助について。気になったのは

初期の援助は米政府からのガリオア・エロア資金、在米日系人を中心とした救援活動によるララ物資、NGOによるケア物資、ユニセフからの援助など…

ただしララ物資についてはGHQの意向で日系人の関与が秘匿され、外国からの援助物資として配布されました。

この時代は私にとては物心のつく以前のこと、ほとんど記憶はない。ただ本当に静岡の田舎までララ物資の恩恵が行き渡ったのかは、その実感はない。きっと都会の飢えた子どもたちに吸い取られたのではないかと思っている。

それはともかくとして、「日系人の関与が秘匿され」たというのは初耳だ。

少し経過を調べてみることにする。

いくつかの文献があったので、そこから膨らませていくことにする。

昭和20年

http://www.a50.gr.jp/jp/lara.html より

11月 サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助、「日本難民救済有志集会」を開催。邦字紙「ロッキー新報」に「故国の食糧危機重大」と題する記事を載せ、「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」と運動を呼びかける。

岩崎美智子「ララの記憶」より

10月 東京・上野駅における餓死者は 1 日平均 2.5 人で、11 月の数字では、8 月以降の餓死者は京都 300 人、大阪196 人、名古屋 72 人であった。戦災浮浪児、孤児、非行児など 18 歳未満の要保護児童の数は 40 万人とされる。

餓死者続出の情報が海外でも知られるようになり、次期大統領を狙うマッカーサーは焦ったと言われる。

昭和21年

1月22日 浅野七之助が中心となって「日本難民救済会」が設立される。大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするように陳情。

当時、各種宗教団体を中心とする海外事業篤志団アメリカ協議会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)が対外的な慈善活動を担っていた。しかしその対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。

4月 海外事業篤志団の傘下組織(特別委員会)としてLARAが結成される。「日本難民救済会」を母体とする。

正式名称は「アジア救援公認団体」(Licensed Agencies for Relief in Asia)。加盟団体は教会世界奉仕団、アメリカ・フレンズ奉仕団、カソリック戦時救済奉仕団、ルーテル世界救済団、メノナイト中央委員会、カナダ教会会議、アメリカ労働総同盟、産業別組合会議、ブレズレン奉仕委員会、ユニテリアン奉仕委員会、クリスチャン・サイエンス奉仕委員会、アメリカ・ガール・スカウト、救世軍、YMCA、YWCAである。

6月 アメリカ合衆国救済統制委員会、日本向け援助団体の設置を認可。

6月 ララ代表が来日。日本政府およびGHQと、運営についての交渉を開始する。ララは「公平・効果的・迅速」を物資配分の「三大モットー」として主張。

9月30日 三者の交渉が完了。ララはGHQの統制のもとに救援物資を送り、日本政府がGHQの指示の下に「受領及配分」を行うこととなる。

ララの駐日代表部は、マキロップ神父(カソリック戦時救済奉仕団)、ローズ女史(アメリカ・フレンズ奉仕団)、バット博士(教会世界奉仕団)が担当する。
ローズは戦前20年以上にわたる在日経験を持つ。バイニング夫人の後任として皇族の英語教師を務めた

11月 「学校給食実施の普及、奨励について」の次官通達。全国の児童を対象にした学校給食の方針を正式に決定する。

11月30日 第一便 (ハワード・スタンズペリー号) が横浜に到着。ララの支援物資(大型トラック100台分)が届き始める。支援は全458便。27年の講和条約まで続く。

全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%。推定で1100万ドル=400億円(当時価)に達した。乳牛や2000頭を越える山羊などもふくまれた。救援物資の20%は米、加、伯、亜などの日系人が集めたとされる。

12月24日 東京の永田町小学校で贈呈式を実施。最初の物資は東京都内の486施設5万人に分配される。

昭和22年 

1月 第二回目の救援物資。最も戦災被害が大きかった8都府県に配布される。その後3月、5月に支援物資が届き、全都道府県に物資が入る。

1月20日 永田町小学校でララ物資による給食が開始。その後全国の主要都市の学童 300 万人に週2回の給食。

7月31日 衆議院本会議において感謝決議を全会一致で可決。

昭和23年 東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の6大都市の約300ヶ所の保育所でララ物資による給食が開始。

昭和24年 全米23の教会諸団体、7万6千の教会が「ゴール1,000万ドル 難民救済の催し」を実施。「日本の子供たちを救おう」と募金活動。

昭和25年 「ララ物資への感謝と日米の友好親善のために女性親善大使の選出する」ことを目的にミス日本コンテストが行われる。第一回目の受賞者は山本富士子。(このコンテストは第2回をもって廃止)

昭和27年

6月 講和条約発効とともにララ物資も終了となる。1,400万人以上、即ち当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと言われる。


GHQが日系人のイニシアチブを隠蔽したという経過は確認できなかった。もちろんGHQの日本統治の手段の一つとしてララが利用されたという側面は否定できない。

ただ、それが主要な側面だったというのは、GHQ内の「民政派」の努力(手練手管)を否定することにもつながりかねず、賛成はしかねる。

とにかく「アジア救援公認団体」の構成メンバーを見れば、マッカーサーならずともひれ伏す以外にない「葵の御紋」である。この「権威」を使ったことが、いかにその後の措置をスピーディかつ円滑に進めたかは想像に難くない。ここが勘所である。