呉への空襲は映画の通り何回も繰り返し行われている。とくに7月末、広島への原爆投下の直前は執拗で、広島の原爆投下作戦へのカモフラージュだった可能性もある。呉市民にとっては、ほとんど「慣れっこ」になっていた。

呉戦災を記録する会 によると、

1945年

3月19日午前7時20分 アメリカ海軍の第58機動部隊約350機が、呉軍港への空襲。3時間半にわたり波状攻撃。この時港内には大和など戦艦3隻、空母5隻などが停泊していたが、多くは小破ないし軽微にとどまった。

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呉の戦災より転載(大和は2月28日には停泊していたが、この日は広島湾に退避していた)

3月27日 対日「飢餓」作戦が開始。沖縄上陸作戦を前に、海上補給と応援部隊の派遣を阻止するため、下関海峡、呉及び佐世保軍港、広島湾にパラシュート機雷を投下。

5月5日 B-29約120機、隣接地域の広地区海軍工作庁(広工廠)を空襲。

6月22日午前9時30分 162機のB-29が呉軍港内の呉海軍工廠の造兵部(兵器工場)に空襲。1時間余の爆撃により造兵部は壊滅するが、造船部はほぼ無傷で残される。
海軍工廠では勤労動員の学生を含む約10万人が働いており、少なくとも400人以上が犠牲になったが、新聞には「死者1名もなし」と報道された。
隣接する宮原・警固屋地区、また安芸郡音戸町にも爆弾が降り注ぐ。映画ですずと晴美が空襲に遭ったのはこの時のこととされる。

7月2日0時 B29約150機による呉市街地の戦略爆撃。2時間で16万発の焼夷弾を投下。約337ヘクタールが焼失し、12万5千もの人が家を失う。

7月24日~28日 ポツダム宣言受諾を迫る「対日集中作戦」の第一陣として、5日間にわたる呉沖海空戦がはじまる。のべ1845機の艦載機が攻撃に参加。

7月24日 土佐沖の空母から飛び立った艦載機約870機が、呉軍港内艦艇を中心に爆撃。沖縄伊江島のアメリカ陸軍航空軍も参加する。

7月25日 B29・B24約110機が、港内艦艇を爆撃。

7月28日 第38機動部隊約950機が来襲。戦艦3隻が沈没、空母5隻が沈没ないし大破するなど、ほぼ全ての艦が航行不能となる。

7月29日 呉市民の犠牲者は2062人、軍関係者の死者数は不明。

8月6日 広島に原爆投下。

8月8日 福山に大空襲。