一応書いてみる。酒飲み話だ。

4月にいまの仕事を辞めてからやってみたいこと、それはもう一度セツルメント活動を再開することだ。

身過ぎ世過ぎでやってきたが、それはもう良い。もう一度、勤医協の歯車になるのもしんどい。

老後の趣味でブログに精を出すのも人生だ。しかしそれで一生を終えるのも癪だ。趣味の世界は趣味の世界だ。やはり世のため人のため、さらには正義のために働きたい。

といっても、そちらの方の才覚はない。

そこで思い出したのが、学生時代のセツルメント活動だ。あれをやれば良いのだ。誰かがマネージメントしてくれれば、むかしの仲間を集めて、貧困層の医療の悩みに手を差し伸べれば良いのだ。

全生連でも民医連でも良いレポートをたくさん出している。しかし残念ながら医学的な面でのフォローが欠けている。医者が関与していないからだ。

理由ははっきりしている。医者が忙しすぎるからだ。しかし忙しさを理由に関わらなくなって、いつの間にかそれが当たり前になってしまったことも反省しなければならない。

昔セツルで論争があって、セツルメント活動は学生でもできることをしてすこしでもお役に立とうという実践優位論と、学生は学ぶことに徹するべきで、そこで得た観点を卒業後の生活に活かしていくべきだとする学習優位論があった。

もちろん原論的には学習優位なのだが、そこには「やむにやまれぬ大和魂」みたいなところがあって、現場の指揮者は威勢のいい実践優位論に傾きがちであった。

いまもしこの歳になってセツルメントをやるのなら、原論的には実践優位になるのだろうが、むしろ今だからこそ学習優位論に立ちたくなる。

気持ちは「勉強させてもらいます」が我々の合言葉になるだろう。しかしまわりからは、「せっかくお医者さんにきてもらったのだから」という期待が高まるに決まっている。だからそれにはそこそこ応えなければならない。

しかしそこはギブアンドテークしかない。というより健康相談と健康調査が否応なしにセットだ。「授業料はお返しします。その分勉強させてください」ということになる。

フィールドは山とある。セツラーはセツル(定着)どころか狩人のように動き回らなければならない。三大学の衛生学教室や公衆衛生学教室の力を借りなければならない