陰流と中条流の関係がどうも怪しい。剣術の世界は相互批判の気風があまりないようだ。

むかし、「わさび漬」というのが静岡の名物で、同じような商品を売っているのだが、かたや本家、片や元祖という具合でなんともいい加減なものだった。剣術の世界でも似たようなものなのか。

探していたら下記の文献に巡り合った。

山嵜正美「平法中條流の傅系について」と言うもので、武道学研究という雑誌に掲載されたもの。発表は2006年となっている。武道の長い歴史から見れば最新と言ってもいいかもしれない。

書き出しは

平法中條流の傅系について誤認論述がまり通っている。より厳しい研究が望まれている

と言うものである。具体的には「本朝武芸正傳」という書物の批判のようである。

伝書の記載は数のごとくである。

中条家系

しかし中条長秀は足利幕府の評定衆であり、いくつかの文書に名が残されている。

初見は貞和2年(1346年)足利尊氏の歌会の参加者として名を残す。ただしこのときは藤原長秀を名乗っている。

長秀はたしかに1384年になくなっているが、法名は長興寺殿秋峯元威である。ある著書に「法名は実田源秀」となっているが、これは長秀の裔孫、中条左馬助信之である。

実田源秀こと中条左馬助は、応永33年(1426)に弟子に単傅を授けたことが確認されている。

伝書の人名が混乱したのは、口伝による簡略化のためであろう。

平法中條流に念流の刀術が取り入れられたのは、左馬助の父である中條判官満平であろう。

念流慈恩の京都における弟子の中に中條判官の名が記載されているが、当時都に居住した中条一族のうち判官職にあったのは満平のみである。

ということで、中条長秀はずっと前の人で、当然武家社会の幹部であるからそれなりの兵法は身につけていたであろうが、どちらかと言えば文官として名を残した人物と考えられる。その子孫に当たる中条判官満平が、京都に出向いた慈恩に念流を学び、それを家伝の中条流に取り入れた、ということになる。

この論文は、さらに、冨田と中条流の関係にも触れ、冨田は中条流を引き継いだものの、冨田流を起こしたわけではないということも明らかにしているが、詳細は略す。

最後の結論は大変厳しい。

冨田流は存在しない。後世の御伝となる元凶は「本朝武芸正傳」の富田流との誤認記述である。

ということで、年表についての疑問が氷解した。