天北線余話

今日は思い切って紀の国屋まで行って、ズラッと並んだ本を眺めてきた。タバコが吸いたくなって表に出たが、そのような喫茶店は見当たらない。やっと見つけたらスターバックスだった。

家を出たのが10時、帰ってきたらすでに3時半だった。その間ずっと紀伊国屋で立ち読みをしていたことになる。腰と膝にもきたが、眼に来た。最後は字が見えなくなってきた。

結局、重い本には手が出ず、買ってきたのが「北海道の鉄道廃線跡」(本久公洋著 北海道新聞社)という本だった。

ここに天北線の紹介があるので、少し抜書きしておく。ついでに他のネット文献からも拾って拡充しておく。

 

1898年(明治31年) 北海道官設鉄道、旭川から北に伸びる天塩線(初代)の工事に着手。当初の建設計画では音威子府までを天塩線とし、それより北を宗谷線と名付けた。

1899年 天塩線が和寒まで延伸。

1900年 天塩線が士別まで延伸。

1903年(明治36年) 北海道官設鉄道の天塩線が名寄まで開通。

1905年(明治38年) 日露戦争。日本の勝利に終わる。樺太の南半分が日本領となる。日本郵船が小樽と樺太の大泊港を直行で結ぶ定期航路を開設する。

1905年 天塩線が同一線名のまま官営鉄道(逓信省鉄道作業局)に編入される。同時に稚内までを結ぶ鉄道の敷設に拍車がかかる。

1911年 天塩線が恩根内まで延長される。

1912年(大正1年) 天塩線が宗谷線に改称される。

1912年 宗谷線が音威子府まで開通。このとき旭川と名寄間を宗谷線と改称する。

1914年(大正3年) 音威子府と小頓別の間が開通。これに合わせ旭川以北の全線が宗谷線と名づけられた。これにより天塩線の名称は一旦消滅。

1914年 小頓別からは歌登町営簡易軌道が分岐。鉄道開通に合わせ丹波屋旅館が建てられた。

1916年(大正5年) 小頓別と中頓別間が開通。

1918年(大正7年) 中頓別と浜頓別間が開通。

1919年(大正8年) 旭川から浜頓別までの開通分を宗谷本線と一括し改称。(21年に一旦宗谷線に戻るが、22年の全線開通に伴いふたたび宗谷本線に改称)

1920年(大正9年) 鬼志別まで延長開通。

1922年(大正11年) 稚内まで開通し、宗谷本線が完成する。

1922年 音威子府から北に、稚内から南に向けて日本海側を周る鉄道の敷設工事が始まる。ふたたび天塩線の名が用いられる。

1923年(大正12年) 稚内と大泊を結ぶ稚泊航路が就航。

1924年 函館から名寄までの急行列車が運行開始。名寄以北は普通列車として運行。

1924年(大正13年) 稚内から南下する天塩北線が兜沼まで開通。音威子府から日本海側に出て稚内を目指す天塩南線が問寒別まで開通。

1925年(大正14年) 天塩南線が幌延まで開通。

1926年(大正15年) 天塩線の幌延と兜沼間が開通。天塩線として一本化する。浜頓別経由の宗谷本線は総延長149キロで、完成に11年を要した。一方、天塩線は127キロで、完成はわずか5年であった。

1928年 函館と稚内を結ぶ急行列車が運行開始。この急行は浜頓別に向かわず、新設された天塩線を経由した。

1928年 稚内と稚内港間の路線が開業。

1930年(昭和5年) 天塩線が宗谷本線となる。旧宗谷本線は北見線に改称。天塩線という名称の路線は一旦消失。

1935年 宗谷本線の幌延駅から分岐し、遠別まで伸びる路線が開設。天塩線と命名される。

1939年 稚内が南稚内駅、稚内港が稚内駅に名称変更する。さらに稚内駅の先に稚内桟橋駅が設置される。

1958年 天塩線は羽幌線に編入され、天塩線の名称はみたび消失。

1958年 札幌・稚内間に夜行準急「利尻」が新設。

1961年(昭和36年) 北見線が天北線と改称。

1961年 函館と稚内を結ぶ急行「宗谷」が運行開始。札幌と稚内を天北線経由で運行する急行「天北」が運行開始。小頓別駅 - 中頓別駅 - 浜頓別駅 - 鬼志別駅に停車。

1980年 国鉄再建法が施行される。天北線は第二次特定地方交通線に選定される。

1989年(平成1年) 天北線が廃線となる。

 


You Tubeで下記の映像が見られる

【車内放送】昼間のブルートレイン!?急行「天北」(14系座席+寝台 ハイケンス 札幌発車後)

天北線(廃線)を行く 急行「天北」  

天北線

いなか(というよりほとんど僻地)の人にとって、豪華な急行列車はそのまわりに豊かさと札幌の臭いを撒き散らしながら走ってくる。