「2ちゃんねる」に「元 性犯罪加害者のその後の生活を見守る」というスレッドがある。
むかしは各家庭にゴミ箱というものがあって、そこを開けるととてつもない悪臭がして、気を失いそうになったものだが、まさにそういうスレッドだ。
性犯罪者の心境が赤裸々に語られていて、半分は嘘だろうが、ところどころ真に迫るものがある。
そこには「余りある性欲」というものは感じられない。①劣等感とそれと裏返しの②憎しみと、③虚無感が「性欲」に流し込まれているように思える。
「世間は彼らを遠巻きにして、真綿で首を絞めるようにして抑圧している」と彼らは思っている。
「少女」は世間の弱い部分の代表なのであろう。だからその「世間の裂け目」に向けて「生」がほとばしり出る。これまで自分に加えられた軽蔑とかいじめとかが睾丸に貯めこまれていて、それが“抵抗しない世間”に向けて一気にほとばしり出る。
他所の国では性犯罪者はDNAに刻み込まれた精神病質者であり、生かしておくこと自体がためにならないような議論になっている。
これは一面では正しいかもしれないが(本人たちもそう思っているようだが)、一面では間違っているようだ。
正しいというのは、彼らは生きている限り再犯の可能性があるということであり、間違っているというのは、それがDNAにより規定されているのではないということだ。(例えば大久保清のごとく、DNAで運命づけられた性犯罪者が存在しないと言っているわけではない)
あくまで彼らの主観にそって考えるとすれば、こうなるだろう。
彼らは人間として生きることを否定された(と感じている)存在であるが、非人間的に(獣的に)生きることを許容された存在だ。
レイプとは、人間であることを否定された(と感じている)人間の非人間的な代償行為であり、彼らはレイプすることで世間に復讐し、“生きている”ことの意味を問うている。
宮沢賢治の詩のように「雨ニモ負ケズ、風ニモマケズ」というのが世間の道徳だが、雨にも負けて、寒さにも負けて、なおかつ生きている人間の、自らの在りように対する理不尽な合理化だ。それは根拠の無い「被害者意識」と結びつくことで確固としたものになっていく。
そしてその合理化は生きる実感(復讐)としてのレイプへとつながっていく。
したがって彼らが社会への怒りを感じている限り、それを理不尽に合理化する限り、その理不尽な行為を、真の意味で悔い改めることはないだろう。
彼らの思考や発言はいわゆるネトウヨときわめて近似している。彼らが少女をレイプする代わりに「嫌韓デモ」で旗を振れば、それを喜ぶ人はたくさんいる。「理不尽な合理化」が必ずしも理不尽ではなくなってくる。
なぜ「朝鮮人の馬鹿野郎」と叫べば英雄視され、なぜ小学生をレイプすれば非難されるのか、彼らには分からないのではないか。そこに時代の理不尽さがある。