つまらない話で申し訳ありません。

一人で歩いて行った往診の帰り道、

「園のさゆうり、なぁでしこお垣根のちーぐーさー」と口をついて出た。

これは認知症による独語ではなく、小さい時からの癖である。内側膝状体・海馬性の発語であろう。

外国の歌に日本語の歌詞をつけるとき、昔はかなり強引にやった。

小百合を“さゆうり”と発音する違和感はかなりのものだ。せめて“さあゆり”とはならなかったものだろうかと考えた。

しかしそうやると、“あ”がなんとも気が抜ける。

そもそも小百合でなくて4文字の花はなかったのか。第一、「園の小百合」なんて、宝塚の芸名みたいで、あまりにも月並みだ。

それにしても、この歌のいいのは最後の「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」だよな、これは絶対コーラスだろう。

ということで、部屋に戻って早速グーグルしてみた。


まず元歌。

これはドイツ民謡で『最後の夜』(Der letzte Abend)というのだそうだ。

世界の民謡・童謡 というサイトで、全曲歌詞をふくめて詳しく紹介されている。

ドイツ中部フランケン地方の民謡といわれる。作詞・作曲者や作曲された年代などは一切不明で、現在のドイツ国内ではほとんど知られていない。

歌詞を見ると、家庭の事情で好きな女性と結婚できず、彼女と別れた最後の夜を嘆き悲しむ悲恋の歌となっている。特に最後の4番・5番のくだりは死を暗示させる。

というから、「冬の旅」の冒頭の歌「おやすみ」を思わせる。

そこで紹介者は

「民謡」というよりは「歌曲」に近い完成度の楽曲であり、おそらくはシューベルト歌曲のように、しっかりとした作り手による作品だったのだろう。

と想像している。(ウ~ム、そこまで言うか…)

「やはりそうか」と思ったのは、「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」のところだけコーラスで歌うようになっていることだ。

[Chor]
Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,
Feinsliebchen lebe wohl !

となっている。

ドイツ語はリエゾンしないから、“ヌンアデアデー、ヌンアデアデー、ファインリーヘン、レーベーヴォール”となる。いかにもだ。ヌンは今で、アデはフランス語のアデューだろう。


唱歌としての「故郷を離るる歌」は1913年7月に出版された「新作唱歌 第五集」に掲載された。大正2年というから、親父が生まれる前の年だ。

吉丸一昌という作詞家による「訳詞」ということになっているが、ほとんど作詞だ。

言葉は陳腐なところがあるが、構成はしっかりしている。

最初は縁側に座って間近な庭から垣根へと視線を上げていく。そして

今日は汝(なれ)をながむる 最終(おわり)の日なり

と叙情へ持っていく。

2番は家を出て峠へと向かう道すがらだ。1番に比べると言葉はお座なりだが、

別るる我を 憐れと見よ さらば故郷

はちょっと“刺さる”文句だ。それは“こころざしを果たさん”ための旅立ちではない。“哀れな旅立ち”なのだ。「そこに女がいる」と、「そして何かがあった。それは終わった」と、微かに思わせる。

とすれば叙景がお座なりなのは、意識的にそうしたものかもしれない。

三番の歌詞はついに峠まで来て、振り返り、最後の別れを告げる情景だ。とても良い。ありきたりの叙景ではなく、未練を噛みしめる切ない叙情だ。

此処(ここ)に立ちて さらばと 別れを告げん
山の蔭の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて たそがれたり さらば故郷

ところが、この三番、どうやっても思いだせない。歌った記憶がないのだ。

はたしてこの歌(唱歌)に3番はあったのだろうか。


Youtubeでいくつかの演奏が聞ける。当然合唱がいい。NHK児童合唱団のものが出色だと思う。

ソプラノ独唱がいくつかあるが、うまいとか下手という以前の理解だ。

この歌は斎太郎節と同じでコールアンドリスポンスだ。“さらば故郷…”が聞かせどころで、前の文句はそれとの掛け合いみたいなものだ。“エンヤトット”のリズムを崩してはならない。アクセントをはっきりさせなければならない。

弱起なのだから、“その”に心持ちテヌートをかけて、次の“の”を強調しなければならない。さらば故郷のところは、“ば”にアクセントを置いて、最後のフレーズだけ“ふる”を強くすることになる。

いっそ16拍にしてしまう手もあるが、さすがにせわしい。


崎山輝一郎さんという方の琴月と冷光の時代 というページに、吉丸と唱歌の関係について詳しい経過が載せられている。

まず吉丸の経歴がきわめて要領よくまとめられているので紹介する。

吉丸一昌は大分県北海部郡海添村(現在の臼杵市海添)の出身である。明治6年9月15日に旧臼杵藩士の家に生まれた。

苦学の末に明治34年7月に東京帝大を卒業した。体育会系の人物で成績はすこぶる芳しくなかったようである。この時既に28歳で妻帯していた。

卒業後は東京府立第三中学校(現在の両国高校)に赴任し、同校で6年間、国語と漢文の教諭をつとめた。

そのかたわら、私立の下谷中等夜学校を開設し、苦学生と生活をともにした。

明治40年3月21日の小学校令改正で唱歌が必須科目となった。東京音楽学校は、国定に準じる唱歌教科書をつくる任務を与えられた。

吉丸は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の教授に抜擢され、尋常小学唱歌や新作唱歌の編纂を委ねられた。明治41年、34歳のことである。

以下、就任前後の経過が続くが、ここでは省略する。(ただし面白いので、ぜひ本文をご参照ください。ウィキペディアもご参照ください)

なお吉丸は我が母校静岡高校の校歌の作詞者でもある。撃剣術の達人らしく、ゴリゴリの軍国主義である。