函館日ロ交流史研究会という組織があって、そのサイトが面白い。

内容がやたらと豊富なので、抜粋しながら紹介する。

最初は2016年3月 7日の記事「―ゴシケヴィッチ生誕200年記念事業、函館開催をふりかえる―」というもの。著者は長谷部一弘さんという方。

と言っても、ゴシケヴィッチという人は1814年生まれだから、一昨年の記念事業を振り返っていることになるらしい。

ゴシケヴィッチは帝政ロシア時代の外交官。函館で初代駐日ロシア領事となった人だそうだ。

経歴を簡単に書いておく。

彼はベラルーシの生まれ。父はロシア正教の司祭だった。ミンスク神学校からサンクトペテルブルクの神学アカデミーに進み、卒業後は北京宣教団に加わり10年間活動した。この時の功績で「聖スタニスラフ勲章」を受章している。つまり半分宣教師のような存在だったようだ。

1858年 から1865年までの約7年間函館に滞在したという。

帰国、引退後は故郷で「日本語の語源」の研究を続けたらしい。

ここから

初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチの時代(1858年-1865年)

が始まる。

1855年に日露和親条約が締結された。領事館を設置することとなり、函館が選ばれた。

ロシアが「函館」に着目した理由はいくつか考えられる。まず、当時のロシアの極東政策で、沿海州のニコラエフスクが拠点となっていたことがある。

対岸の不凍港である函館は、休養・載炭・食糧調達・越冬に不可欠な寄港地と考えられていた。

さらに、サハリンのドゥーエで産出された石炭の貯蔵倉庫を函館に置き外国に売ることも重視された。当時サハリンの帰属は未解決で、外交努力が不可欠であった。

1858(安政5)年11月5日、ゴシケーヴィチ領事は軍艦ジキット号で函館に入港した。外交団は領事家族、書記官、医師夫妻、海軍士官、司祭、下男4人、下女2人の計15名で構成されていた。

函館のロシア領事館は、東京にロシア公使館が開設(1872年)されるまでの間、日本で唯一のロシアの外交窓口だった。

ロシア領事館は、「北の地の文明開化」の推進に寄与した。

ロシア病院ではロシア人のみならず日本人の患者も無料で治療した。また写真術、西洋医学、造船技術など日本人が欲する西 洋の先進的な技術を日本人に伝授した。

キリスト教解禁前だったが、教会関係者はロシア語の普及に努めた。ロシア語教本『ろしやのいろは』が作成され各方面に配られた。

幕末開港期の日本は攘夷運動が激しかった。1859年、横浜でモフェットロシア海軍少尉ら3名が日本人によって殺傷されている。

「大勢の警護隊なしではヨーロッパ人はほとんど外出できなかったが、函館では市外のかなり遠方にまで安心して旅行できる」と言われていた。

後に、ロシアのゴルチャコフ外相は「箱館にロシア領事館が開設されてからの7年間、現地 との関係は最も満足すべき状況にあった」と総括している。