1.視床は途中駅ではない

教科書では視床(前脳)は間脳に一括される。

誰が名付けたか、「間脳」(Diencephalon)とは嫌な言葉である。説明文はもっと嫌な感じである。

左右の大脳半球の間に位置し、大脳半球と脳幹を中継する

解剖学の教科書には途中停車駅なもの扱いしかされていない。これでは新大阪駅だ。大阪の街そのものではない。

大脳皮質が担う機能の全てに視床が深く関わっている

これは逆だろう。そもそも視床の働きにかかわったからこそ大脳が発達したのではないか。

もちろん多岐にわたる問題を処理できるわけはな いので、つかさつかさに委ねるべきは委ね、各種の審議会や学識経験者(歩く記憶装置)からしかるべき答申を受け、そのほとんどについては「めくら判」(すみません、差別用語です)を推すことになる。ほとんど「丸投げ」と「めくら判」の連続だから、一見するとただの中継基地にしか見えない。

しかしそれは違う。この膨大な情報処理システムを起動し駆動させる力=欲望は視床にしか充てられていないのだ。視床こそは脳組織の中でただ一つ、「欲望する脳 」なのだ。「社長は僕」なのだ。

2.視床は動力付き思考回路

むかし、田中角栄のことを「コンピュータ付きブルドーザ」といったことがああった。

やたらと数字に強い一方で、積極果敢な行動力であたりをなぎ倒して突き進んでいく、そんな田中角栄に対して世間は一面では危うさを感じるとともに、一種の魅力を感じたものだった。たぶんそれは高度成長の時代が産んだ、ひとつの英雄像だったのだろう。

脳で言えば視床(前脳の上半分)がそれに当たるのではないか。

脳は全体として一つのコンピュータであるが、それは電源がなければ動かない。その発電所は視床下部にあり、そのスイッチを入れたり切ったりする作業は視床がになっているのである。

他にこのような脳はない。だから視床は最終決断の権限、統帥権を持っているのである。

3.思考の動力は欲望

欲望を直接生み出す機能そのものは視床(視床下部も含めて)にしかない。

本能的欲望による誤った決断がなされないように、大脳には二重三重のセーフティ・ネットが張り巡らされているだろうし、意志の力で欲望を押さえつけることすらできる。

しかしその意志の力も、元は欲望により形成されたものだ。

大脳自身が判断して適切と思われるような行動を指示する、視床はこれを中継して椎体路系に伝える

と書かれているが、それは違うのではないか。

たとえ命令に近いような強い指示といえども、それは形式的には指示ではなく勧告なのではないか。なぜなら、大脳はいかに発達しようと、「前脳にとっての相談役」としての位置づけは変わらないからだ。

江戸幕府は300年にわたり朝廷をないがしろにし、世の中を意のままに仕切ってきたが、身分はあくまでも征夷大将軍という一つの軍官僚機構にすぎない。だからいざとなれば、朝廷の風下に立たざるを得なくなる。

4.大脳は記憶装置のAI 化したもの

視床には大脳のすべての機能が備わっている。その昔は視床だけで勝負したのだろう。大脳(例えば海馬)はそのための、そのかぎりにおいての記憶装置だったのではないだろうか。

ただ記憶装置が大きくなると、そこでは「量から質」への転換が起こる。いわば大脳が「人工知能」(AI)化するのである。

以前なら血液検査を頼むと、項目ごとのデータがずらりと並んだ報告表が帰ってくるだけだったのに、今ではそのデータを解釈して考えられる病名を挙げて、それに対する治療方針までつけてくる、という具合である。

そうなれば、医者の方はもう診断も治療も丸投げだ。医者に必要なのはさまざまなシステムを用いて患者を治そうという意志だけだ。

とはいえ、大脳の機能は視床の機能をいわば反復しているのである。その反復は視床を起点として行われる。(たまに自発放電的な大脳由来の思考-夢想、妄想、せん妄などが見られるが)

視床と大脳は人間とパソコンのようにキャッチボールをしている。しかしピッチャーは視床であり、大脳はキャッチャーだ。 

5.視床中心に考えよう

大脳の仕事を研究するときは、それが前脳(視床)のどの役割をどのように補佐しているのか、という観点から分析しなければならない。

神経解剖学の教科書を見ていると、どことどこがどのように繋がっているかという話ばかりだ。芸能人のゴシップ話みたいなもので、部外者にはさっぱりわからないし興味もない。

わからないのに偉そうに言うのも何だが、「そんな雲をつかむようなことをやっていると、余計分からなくなってしまうよ」と言いたい。政治部記者は政界記者であってはならない。

学校や病院の「緊急時連絡網」という表がある。私の目の前にも貼ってあるが、そんなもの見たって「学校とは何か」とか、「病院とは何か」ということは永遠にわからない。

私はつくづく思う。いまの脳科学には「唯物論」が必要だ。

6.視床から見た海馬

視床の位置づけがすっきりすると、海馬の位置も見えてくる。

前に引用した図をもう一度出す。

Computer_hierarchy

つまり、視床というCPUに対するメインメモリなのだ。

動作時にはこれが一体となって活動する。キャッシュメモリはおそらく視床の内部に存在するのだろうと思う。

メインメモリーはさほど大きくはないから(キャッシュメモリよりははるかに大きいだろうが)、プログラムを閉じるときには、ハードディスクに格納することになる。このハードディスクに相当するのが大脳ということになる。

記憶に関するさまざまの文献を見ると、この関係が明らかにされないまま論を進めているのではないかと思う。海馬は第一義的には視床用の記憶装置であり、大脳用の記憶装置ではない。これを確認したうえで議論を進めないから、系統発生学の立場からは容認し得ないような話が飛び出してくるのである。