安藤広道『「水田中心史観批判」の功罪

というレビューが面白い。入り組んだ題名であるが、これまでの主流的歴史観が「水田中心主義」だったこと、それを批判する形で雑穀栽培に光を当てようというのが「水田中心史観批判」という流れとして台頭したこと、しかし「それにもいろいろ問題があるぞ」という反批判も出ている。それがこの文章だ。

内容を要約紹介しておく。

[論文要旨]

「水田中心史観批判」(以下「批判」)は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。

その論点は,もともとの日本文化を複数の文化の複合体とし,律令期以降に水田中心の価値体系に一本化されたというものだ。

しかしその土台となった縄文文化や弥生文化の農耕をめぐる研究成果がかなり怪しいということが分かってきた。

「水田中心史観批判」が構築してきた歴史は,抜本的な見直しが必要であることが明らかになった。

1.問題の所在

「批判」は1970 年前後から活発になった。まず文化人類学と日本民俗学において水田稲作中心の歴史や「文化」の解釈に対する問題提起が活発化した。

具体的には「畑作文化」や「照葉樹林文化」「ナラ林文化」などだ。

それだけなら勝手にレッテル貼りしていれば良いだけのお気楽な世界だが、縄文「文化」と弥生「文化」のところまで話が進むと、「ちょっと待て」ということになる。

「批判」は多様であるが以下の点で共通している。

*「稲作文化」と,縄文文化以来の畑作を含む多様な「(畑作)文化」を対立的構図で捉える。

*水田稲作が中心となる現象を,律令期以降の国家権力との関係で理解する。

「批判」の問題点は2つある。ひとつは「文化」の概念をめぐる問題であり、もう一つは考古学の研究成果との関係である。

考古学の方にも「批判」に呼応した動きがあった。ひとつはプラント・オパール分析による縄文期のイネを含む穀類生産の確認であり、もう一つは弥生期の水田稲作の比重の下方修正である。

しかし実は縄文のイネについては、考古学的に見て確実な証拠は見つかっていないのである。

縄文文化の農耕技術をめぐっては,現在までのところクリやマメ類,イヌビエなどのいくつかの植物に栽培されていた可能性が認められるに過ぎない。

中略

(3)「考古学的文化」の概念と縄文文化・弥生文化の枠組み

先史時代における時間軸・空間軸の設定は,型式による編年体系によってのみ可能となる。

それは地域的な「考古学的文化」の設定のみならず,縄文文化・縄文時代,弥生文化・弥生時代といった大きな枠組みにおいても同様である。

「日本列島」というアプリオリな地域区分は不要なだけでなく,排除すべきものとなる。

型式は,生物の種とは異なり,時間軸に連鎖する型式の系統と,空間軸に連鎖する型式相互の関係性のなかで存在する。

形式には画期(時間的断絶)と境界(空間的断絶)がある。それは相対的なものであるから、「歴史観」次第で変化する可能性がある。

縄文時代はほぼ純粋に考古学的な学的構造の中で構築されている。しかし弥生時代については必ずしも考古学的構造のみに基づいて構築されているわけではない。

しかし弥生時代を縄文時代と比較するのであれば、同じ方法(純粋に考古学的な学的構造)で規定しなければならない。

弥生時代の考古学的規定

弥生時代の考古学的構築は、純粋に土器の様式にもとづいて行われる。その際縄文式土器がどう変化するかは二義的である。

1.弥生時代の始まり

縄文土器の系統の一部に,弥生式文化を反映した何らかの変化が認められた時点。

2.弥生式文化の拡大

1.で端緒として見られた変化が各地で継起的に生じることで、弥生式文化の拡散が確認される。

3.弥生時代に終点はない

なぜなら縄文が弥生に変わったように、別の土器の時代に移行したわけではないからだ。

4.弥生文化はより細分化されるべきだ

弥生時代には、縄文文化には見られなかったほどの急激な社会的,経済的,文化的変化が生じていた。

これを弥生の一言で括るには無理がある。弥生文化を複数の「考古学的文化」に分割する必要性がある。

例えば、型式学的研究の厚い蓄積のある青銅器を時代区分の物差しに使うことは十分可能である。

長くなるので、ここで一旦切ります。