赤旗の8月15日号に掲載された「西南学院の平和宣言」は大きな反響を呼んでいる。この「宣言」はそもそも4月1日付で発表されたものだが、当時はまったく知られていなかった。

発掘した赤旗は偉い。

文章そのものはそれほど長いものではなく、全文が読めるのでそちらをご参照いただきたい。

と言いつつ、要約を箇条書きにしておく。

宣言の表題は「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言―西南学院の戦争責任・戦後責任の告白を踏まえて―」

1.西南学院は、創立百周年を迎え創立者C・K・ドージャーの示した方向を確認する。私たちは、敵対する異質な他者にさえ、しっかりと向き合い、問い合い、愛し合うことこそが人としての普遍的価値であると信じている。

2.西南学院は、先のアジア・太平洋戦争ではこれに加担し、諸外国の人々をはじめ多くの人々に多大な苦しみを与えてしまった。

3.戦後もそのような過去への責任を明らかにせず謝罪してこなかった。天皇の名による侵略戦争によって傷つき、殺された人々の怒り、苦しみ、悲しみを受け止め、「加害責任」を心に刻み込んでこなかった。

4.西南学院は、天皇皇后の御真影の下賜を願い出、「奉安殿」を建設し、宮城遥拝、君が代斉唱を行った。宣教師たちが敵国人として帰米を余儀なくされた時にも、苦悩・悲しみを共有できなかった。体育教育を「軍事教練」の場とし、学院の名で学生を出陣させ、彼らのいのちを死に至らしめ、他国の人々を殺すことを是認した。

5.私たちは、創立百周年のこの時に過去と将来に想いを馳せ、自国本位の価値観を絶対視し、武力・暴力の行使によって人々の尊厳 を抑圧するという過ちを二度と繰り返すことのないよう、今その決意をここに表明します。


ということで、いささかきつい文章だが、これを西南学院のおかれた位置とつき合わせることによって、真意が見えてくる。

西南学院の歴史

1906年(明治39年)にアメリカから「南部バプテスト連盟」の宣教師C.K.ドージャーらが赴任。福岡バプテスト神学校を開校。10年後に西南学院を設立。以後は全国各地のミッション系学校とほぼ同様の経過をたどる。

かつては「南部バプテスト連盟」より多額の補助を受け、宣教師の派遣も受けていた。学院長もこれら宣教師が就任することが通例であった。

西南学院と日本バプテスト連盟との関係は現在も深く、神学部は日本バプテスト連盟の教派神学校としての使命も負っている。

ウィキペディアの「西南学院大学」などには、2000年以降の信仰をめぐる混乱が若干触れられている。

1970年代より、「南部バプテスト連盟」の保守化が進んだ。79年には原理主義者による南部バプテスト連盟占拠が行われた。

元々、南部バプティストは人種差別を内包していた。1939年アトランタで開かれたバプテスト世界同盟大会では、白人と黒人のゲストは異なったホテルを提供され、会場の座席も分けられた。(アメリカ南部バプテスト連盟

この傾向は60年代後半に一定の是正がなされたが、70年代にふたたび保守派が巻き返した。

2000年に、米本国の「南部バプテスト連盟」がキリスト教原理主義に転向し、信仰宣言を改訂した。

「妻は夫に恭しく従うべきだ」と家父長制を強調、女性が牧師になることを制限する文言などを加えた。「連盟」は宣教師に宣言への同意署名を求め、拒否した宣教師は絶縁になった。

またブッシュ・ドクトリンを積極的に支持するなど、政治的右傾化を強めた。

「南部バプテスト連盟」は、2004年には世界バプテスト連盟を離脱するに至った。

この動きが西南学院にも波及し、宣言への署名を拒否した多くの宣教師が解雇され、帰国した。学院長も任期が終わると同時に離日した。

学院にとどまった4人の元宣教師は「南部バプテスト連盟」を離れ、学院の専任教員として採用された。

というような経過を経て、本国の「連盟」とは絶縁しこれまでの方向を一層強化する方針が確立された。「創立者C・K・ドージャーの示した方向」というのはそのことを指す。


ということで、状況としては一知半解なのだ。

結局下記のことが分からなければ、状況は理解できないということが分かった。

1.バプティスト派の由来

2.バプティスト派と南部バプティスト連盟の関係

3.日本におけるバプティスト派の動き

4.日本バプティスト連盟と西南学院の関係

思わぬ深みにハマりそうな予感がする。