前項の続きになるのだが、中途半端な「文系“遊び”論」は論理建てとしては危険だ。

「遊ぶ」ことをいろいろ考えるのはいいのだが、普通の日本人にとって「遊ぶ」という言葉はあまりポジティブな語感がない。だからどうしても比喩的なものの言い方になってしまう。そうすると結果的には論理的自殺行為になりかねない。

まずはもっと価値中立的な言葉を選びとるべきであろう。

1.「遊び」の外形的・社会的規定

ここではとりあえず、「欲望行動」としておく。いかにも硬いが、とりあえず浮かんでこないので。

すべての行動は究極的には生存するための欲望にもとづいているので、「欲望行動」である。だから遊びは厳密に言えば「辺縁的欲望行動」となるかもしれない。

しかし近代社会では食うために稼ぐ。つまり労働することと余暇を使って自らの欲望を充足するために行動することは、かなり截然と分けられているので、「欲望行動」という概念は、外形的には鮮明である。

したがって、「欲望行動」は「余暇行動」と言い換えることもできる(あくまでも外形的に)。

2.「遊び」の内在的規定

世の中の行動は「生産行動」と「消費行動」にわけられる。「生産行動」も生産の過程でずいぶん原料とか、燃料とか、労働とかを消費しているが、それ以上に生産している。それに対して余暇行動は純粋な消費行動である。

欲望行動は、総じて「金にならない行動」である。なぜなら金を目的としていないからだ。

つまり、仕事以外の行動は、主観的にはどうあれ「遊び」みたいなものである。失業中の人がどんなに社会に貢献しようと、「なにをされていますか?」と問われれば「今は遊んでいます」と答えるほかない。

「文系無駄論」にはこの発想が色濃く潜り込んでいる。「そんなこと言ったって、つまりは遊んでいるんでしょう」という嘲りだ。

3.余暇と欲望行動

余暇行動には広い意味と狭い意味がある。広い意味では労働時間以外のすべての私事だ。掃除・洗濯から買い物、食事までふくまれる。睡眠でさえ余暇行動だ。それは動物的・必然的欲望にもとづいている。

狭い意味では、それらを除いた時間が余暇であり、「欲望行動」の出番だ。そこに初めて個人の欲望が顔を出し、人間として生きている意味が明らかになる。

その意味において、「遊び」は欲望の発露であると同時に、個性や人格の発露でもあり、生きていることの意味でもあるのだ。(「…でもある」というに過ぎないのだが)

欲望には下品な欲望と高級な欲望がある。高級と言っても高額というわけではない。啄木が言うように淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔に違いはないのだ。

4.ヘーゲルとマルクスは欲望行動をどうとらえたか

ヘーゲルは「欲望行動」の中でも高級な欲望行動として「陶冶」を挙げている。自分を成長させていきたいという欲望が人間にはあり、この欲望に基づいて人間というのは学ぶ。たんに学ぶだけではなく、ときには刻苦勉励する。

マルクスはこれを普遍化した。そんなに刻苦勉励しなくても、家に帰ってぐーたらしているだけでも、明日への英気は養われるではないか。そして明日の労働に備えて労働能力を再生産しているではないか。

ということで、「欲望行動」の総体を広い意味での労働能力の生産行動ととらえ、それを日々の行動の積み重ね、「再生産過程」ととらえた。

5.消費過程の論理

マルクスは最終的にこの考えを「あらゆる生産は消費であり、あらゆる消費は生産である」という言葉にまとめた。

そのうえで、彼は近代(彼にとっては現代)資本主義における生産過程の分析を行っていくのだが、それはいまは関係ない。

肝心なことは彼の言葉の後半、「あらゆる消費は生産である」というところにある。ただこれについてマルクスはほとんど展開していない。

そんなことをしているヒマがなかったからだが、生産過程をしっかり分析すれば消費過程は自ずから明らかになると考えていたのではないか、と私は思う。

6.欲望行動の真の意義は欲望の拡大にある

ちょっとややこしくてすみません。

消費過程を突き動かすのは人間の欲望である。人間は消費の対象に対してさまざまな方法で変更を加え、そのことによって生まれるエネルギーを我が物とする。

対象物はなくなったが、それは我が身に同化されたのである。生産過程では我が身の持つ能力が異化され対象物に付加されたのであるが、今度はその逆である。

これは単純な物質的消費過程だが、その繰り返し=営みは「生活過程」を形成する。そこでは労働により失われた労働能力を回復するにとどまらず、人間の能力の向上・発展がもたらされる。つまり人間の能力の拡大再生産が実現するのである。

かなり端折った言い方になるが、拡大再生産された人間の能力は欲望を拡大再生産する。

欲望は実現することで漸減・消滅するのではなく、充足が新たな欲望を生むのである。それが人間の生産活動の最大の動因である。

7.欲望行動の社会的拡大

以上に上げたのは単純な欲望行動の過程だが、これだけでは自然成長に任せるだけの存在でしかない。

近代文明社会は欲望を飛躍的に増加させることによって飛躍を遂げたのである。

これについては到底書ききれるものではないが、早い話、資本論を紙の裏側から読めばいいのである。

商業の発展、貨幣の普及、産業革命などすべての資本主義的生産システムの拡大は資本主義的消費システムの拡大でもあった。

生産の飛躍的増加は消費の飛躍的増加抜きにはありえなかったし、それらを消費し尽くす欲望の拡大と消費の仕方の多様化以外には出現しえなかった。

これらの欲望行動の質的・量的拡大は生活の質の向上をもたらすだけではない。それ自体、「自然の摂理」に反しないかぎりにおいては、人類社会にとって生産的事象である。

「大量生産・大量消費」時代がともすれば悪者扱いされるのだが、モノの大量生産と混同している。

もっと高能率の生産、労働時間の短縮による余暇の拡大、一言で言えば「人に優しい社会、地球にやさしい社会」の実現により、人間にはもっといっぱいやることがあるはずだ。人はアリのように働くのではなく、キリギリスのように歌わなければなららないのだ。

人間の欲望(物質的であると否とを問わず)には限りがない。それどころか、制約がない情況の下では加速度的に拡大する。それは「限界効用論」への決定的な反論でもある。

8.欲望の社会的創出と文系学部の必要性

欲望の社会的創出こそは社会が発展し人類が発達していく上で不可欠の課題である。

欲望の社会的創出のための最大の源泉は「市場」である。そこにはおよそ欲望の対象となりそうなものがすべて突っ込まれる。そしてモノと直接に結びついて需要を喚起するのだ。

しかし市場は多様な機能を持っており、そこにとどまるものではない。いっぽう消費者は完全なる博物学者ではありえない。そこで様々な装置が欲望の創出に関連して特化している。それは広い意味での「メディア」(情報媒体)であり、そのシンクタンクとして情報の意味付けに当たる各種研究機関であり、教育機関である。

それらの欲望創出機能は理系学部の能く成せるところではない。