赤旗に吉見俊哉さんという人が登場した。初耳の人だ。

東大の教授で、副学長を務めている。1957年生まれというから、私とはひと回り違う。

専攻が社会学、都市論、メディア論。主著が「都市のドラマトゥルギー」というから、「そっち」系の学者のようだ。日頃共産党とはご縁のない世界の人であろう。

ところが、インタビューには意外とまともで平易な言葉で答えている。

最初に感想から言えば、つまらない。

彼は学問の有用性を二つに分ける。

1.目的遂行的な有用性

まぁこれが普通考える有用性だ。

2.価値創造的な有用性

ここが吉見さんの言いたいところである。

彼の言葉を引用すると

自明とされる価値を反省したり、新たに価値を創造したりする有用性です。

うーむ、分からんなぁ。反省するのと創造するのとは違うし、新たに価値を想像する有用性というのは「そのまんま」だ。

これは、むしろ文系の知が得意とするものです。

そうかねぇ、あなたがそういうだけじゃないの。

(社会の価値観が)変わることは歴史を見れば必ずあります。(かつてはモノ第一主義だったが)、現代はサステイナビリティやレジリエンス、コンビビアリティをデザインしていくことが大切です。
このような価値の転換を促すのが文系の大きな役割です。

そういうのって、ただの流行(ニューモード)じゃないの。横文字がずらずらと並ぶと、むかしあった「モーレツからビューティフルへ」のキャッチコピーを思い出してしまう。

ということで前半はさっぱり面白くもないし役にも立たない。

後半は「遊び」に焦点が移る。

文系の学問は「遊び」だという主張だ。

人類は遊び心を出発点にして、既存の価値を相対化し、新しい価値の創造や転換をやってきました。

…文系の知の根幹にはこの遊戯性があり、それが価値創造の源です。

これも言ってみただけの「ご高説」だ。その限りにおいては「ごもっとも」だが、「そんなものくそくらえ」と言われればそれまでだ。

ここで突如ホイジンガーが持ちだされる。

じつはこのホイジンガーの本、むかし読んだのだ。拙息の誕生にあたり「遊」と命名したが、この由来を構築する作業として読んだので邪念が入っている。この他にカイヨワの「遊びと人間」というのも読んだ。

どちらもつまらなかった。

なるほどホイジンガーをそういう目から見る視点もあるのか、と感心はしたが、「だから何さ」という感じもある。


1.文系は「素養」を磨くところ

私は文系の学問は「素養」だと思っている。素養というのは「教養のちょっと高級なもの」くらいの感じだ。あるいは「ちょっと専門的なもの」という方がよいかもしれない。

「教養」というのは「常識のちょっと高級なもの」くらいの感じだ。そこには「社会人としての常識」とか「大学生の常識」とかいう知識レベルの枠組みではなく、人として生きていく上での叡智、とか物事に向き合う態度とかの倫理的なニュアンスもふくまれると思う。

それは一種の体系であり、知識人たるもの、人生の何処かでその「とば口」くらいまでは接近しておくべきだというものだ。

それは人にとって大事な知恵だから、素質がある人がかならず受け継がなければならない。そうでないと人は「専門バカ」や「エコノミック・アニマル」になってしまう。

2.大学が就職の窓口であることが問題

たしかに世界のどこでも大学は就職の窓口となっている。しかしそれは企業の側の勝手だ。大学は本来は(というより当初は)、国の最高学府として「国家のための」人材を育成する機関であった。

だから夏目漱石も滝廉太郎も国費で留学したのだ。

「国家」の概念はその後変遷を遂げたが、少なくとも企業のための機関であったことはなかった。

それが就職の窓口の比重がどんどん重くなって、その結果企業の論理が優先するようになった。これが最大の問題ではないか。


これからは「国民」を視座においた、その知的要求に根ざした「開かれた学府」としての位置づけが必要だろう。
そのことを念頭に置けば、大学の再建は可能だと思う。

3.遊びは理系にも必要だ

「遊びがなければ学問はない」というが、それはむしろ理系の自然科学にこそ当てはまる。

物づくりは現場でやればよい。

大学を職業訓練所か企業の研究所にするのは、大企業の研究開発費を節約するためにしか役立たず、目先の成果によって大学を駄目にする。

繰返すが、遊びは理系・文系を問わずすべての学問に必要だ。