Y染色体ハプログループの話は、やはりハプログループOまで行かないと完結しない。

とくに長江文明と北方人の関係を知るにはO人の細かい前後関係が不可欠だ。

将棋の香車のように前にしか行かないというY染色体の性格はまことにありがたい。

ウィキペディア「ハプログループO」の項目から


     ウィキペディアより

3万年前 ハプログループK2からNOが分岐。南方ルートで東南アジアに進出。

ハプログループOがO1とO2に分かれる。O2はOグループ中最大の人口を持ち、中国北部に特に多い。

(2015年11月にISOGG系統樹が改訂され、旧O1と旧O2は現在はいずれもハプログループO1のaとbとなっており要注意。O2は旧O3)

2万5千年前 ハプログループO1がO1aとO1bに分かれる。O1aは中国南部、台湾先住民に多い。

これについては、もっとずっと最近のことだとする主張がある。崎谷はいくつかの論文を引いて、NOからのOの分岐が1万7千年前としている。またO系の発生地は東南アジア南部だとしている。そしてO系人が中国に入ったのは8100年前としている。ちょっと遅すぎるように思えるが。

2万年前 ここに「スンダランド水没」の説話が入る。最終氷期の終了に伴い海面が140メートル上昇したというもの。

6300年前 ハプログループO1bがO1b1とO1b2に分かれる。O1b1は東南アジア、中国南部に多い。

O1b2が朝鮮半島に渡った長江人と見られ、日本列島、朝鮮半島に多い。

O1b2にはa1aとa1bという2つのサブタイプが見られ、a1bは朝鮮半島にも存在するが、 a1aは日本国内のみである。

ウィキペディア「ハプログループO1b2」の項目から

崎谷満はO1b2に属す集団は2800年前に中国江南から山東半島、朝鮮半島から日本列島へ水稲栽培をもたらしたとしている。

考古要素では、中国浙江省から中国東北部、朝鮮半島、日本の九州などにみられる東アジア型の支石墓の分布とほぼ一致している。

ウィキペディア「ハプログループO2」の項目から

漢民族(65.7%)やビルマ族(86.7%)、朝鮮人(50.9%)に高頻度であり、東南アジア人で中頻度で見られる。

日本人にも約20%に観察される。西日本で高い。大部分は弥生時代以降の中国大陸及び朝鮮半島からの流入であろう。

ウィキペディア「ハプログループO1b」の項目から

東南アジアおよびインド東部に多いO1b1と日本列島や朝鮮半島に多いO1b2の分布の中間に中国が位置していることから、O1b系統がもともと中国で発生し、そのサブグループたちが中国から拡散したという仮説がある。

O1b2系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、朝鮮半島へ渡った(崎谷)


ハプログループ O の話はほとんどすべて崎谷ネタだ。

色んな話の出処は結局崎谷氏の所説に行きつく。あたかもアジアY染色体のアダムの如き様相を呈している。

崎谷さんの本は旧分類の時代だから、O2の扱いをめぐって、大混乱している。もちろん訂正している人もいるが、間違いを元に喧嘩を売る人もいるから要注意だ。

平ったく言うと、NO人はインド経由でやってきて、東南アジアでN人とO人に分かれた。O人は中国大陸を北上し、C人の住むモンゴル近くまで行った。一部はそこまで行かずに長江文明を築いた。北まで行ったのがO2人で、彼らは南に引き返して残っていたO1人を駆逐した。駆逐された方のO1人は南に逃げてO1aになり、東に逃げたものがO1b人(弥生人)になった。

N人の行方は分からないが、日本にも少数のN人がいることから、同じようなルートを辿ったのではないかと思われる。

おそらく最大の問題はO人が南方由来か否かということだろう。私はなんとなく北方経路かと思っていたが、考えてみればなんの根拠もない。

ただ南方説の最大の難点は、O人の多数派がなぜ長江にとどまらずに、さらに北に向かったのかということ、それなのに舞い戻ってきたのはなぜかということが説明できないことだ。

南方由来のO人は決してマンモスハンターではなかったはずだ。小動物を狩ることはあっても漁労・採集がかなりのウエイトを占めていたはずだから、北を目指す理由がよく分からない。

もう一つは、O人にとって中国は無人の野ではなかったということだ。そこにはC人が先住していた。彼らとの関係はどのように変化したのだろうか。