中村平八 「ソ連を殺したのは誰か」
の全文がネットで読める。同志社商学 第52巻(2001年3月)というページでPDFになっている。
91年の事態は民衆とは関係のない宮廷革命であった
91年の時点で、ソ連の国家体制と民衆の間に決定的かつ敵対的な矛盾は存在しなかった。
バルト3国を覗く各共和国の民衆の大多数は、最後まで緩やかな連峰国家体制の維持と、改善された社会主義経済の存続を支持していた。
ソ連の民衆は次々に生まれる新党のいかなる党にも積極的関心を示すことはなかった。
ソ連を殺したのはロシア共和国のノメンクラトゥーラのなかの体制転換派(急進改革派)であった。
ソ連の「成功」を再確認する
ソ連は70年間失敗続きであったわけではない。それどころか、初期の40年間は大成功したとさえ言える。
だから、ソ連を批判する際には、まず、なぜソ連が成功したのかを分析し、それがなぜ成功因子を失い、右肩上がりの経済がどのようにして壁にぶつかり、ついに崩壊していったのかを明らかにしなければならない。
まずは経済的成功の場面から。
①スターリンの下でソ連は急速な工業化に成功した。第二次大戦後にはヨーロッパ第一位の工業国に到達した。
②第二次大戦では参戦国中最大の人的物的被害を被ったが、短期間で経済復興し、アメリカに次ぐ経済力(85年GNPでアメリカの55%)に達した。
③平均寿命、栄養摂取量、医療水準、識字率、普通中等教育終了率でソ連は西側先進諸国と肩を並べた。
④失業の恐怖、老後の心配、住宅・教育・医療費負担はなくなった。
これらを生み出したのが計画経済(著者によれば軍事共産主義供給制)であった。しかしそれは恐怖政治と非能率を伴っていた。(ただし非能率といえば、恐慌と失業ほど非能率なものはない)
ソ連型計画経済の特徴
①「不足の経済」の外延化
革命時の絶対貧困と、その後の国内戦のもとで、量産計画が全てであり、需要との照応は必要なかった。
党の独裁体制のもとで、立憲体制を乗り越え、人命まで含めた過度の収奪が可能となった。
②計画経済の負の成果
生産効率や生産物の質は二の次にされ、無駄の体系が作り上げられた。
行政機構の肥大と非能率化、官僚主義と腐敗。
主人公たるべき労働者・農民の疎外。労働資源化。
感想は、この記事の表題通り。不足だったから「不足の経済」が成功し、それが一定程度充足されることにより壁に突き当たる。問題はその次になにをするべきだったのかがはっきりしていないことだ。
60年代始めにリーベルマン構想が打ち出され、利益の出る構造への変革が打ち出されたが、結局うまく行かなかった。
私が思うには、自由な購買者の出現がないと、生産サイドの改革だけではうまく行かないのではないか。
生産の増大は消費の増大を伴う。消費の増大は欲望の増大をもたらす。増大した欲望が実需となり生産を刺激する。
この螺旋形構造が創りあげられないと経済のそれ以上の進展はない。
「不足の経済」のシステムは循環システムになっていないから、この問題に対応できない。利潤の導入は生産側のインセンティブにはなっても消費者には関係ない。実はここに市場の最大の価値がある、と私は思う。市場の最大の役割、それは需要の創出にある。
なぜなら市場こそは貨幣経済の最大の実現の場だからだ。人々は職場においては奴隷として扱われる。しかし貨幣を持った一生活者として市場に登場したとき、彼は「王様」にだってなれるのである。
したがって市場は人々の「自由な真の需要」を表現する場になるのである。生産者は市場を見て生産を調整するだけでなく、需要を掘り起こし生産拡大に結びつける。
このような需要の拡大が、生産の増大をもたらし経済の発展へと結びつけていくのである。また労働者・農民の自由をもたらし、当局者の全面的圧政の軛からの解放へと繋がる。
市場の真の機能は競争にあるのではないし、需要と供給のバランスにあるのでもない。それは「欲望の見本市」であるところに最大の機能があるとみるべきだ。
この辺は稿を改めてもう少し検討してみたいと思う。
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