マルクスの株式会社論と社会主義

安井修

1.課題設定

マルクスは,株式会社に「資本所有の潜在的な廃止」という位置づけを与えている。「資本所有の廃止」であるが,あくまでも「潜在的」である。

この意味内容の検討を通して,社会主義に株式会社制度を導入することの原理論的な意味を考えてみることとしよう。

2. 『資本論』第3 巻第5 篇第27 章の位置づけ

周知のように,『資本論』第3巻のオリジナノレ原稿を調査し,マルクスのオリジナルとエンゲルスによる編集版との差を明確にしたのが,佐藤金三郎や大谷禎之助の仕事であった。

大谷によると, まず,第5篇の「第28章から第32章までの部分は内容的に繋がりのあるもの」とみることができる。それに対して,第25章の「種々の特殊な信用機関は, また銀行そのものの特殊な諸形態も,われわれの目的のためにはこれ以上詳しく考察する必要はない」 という文章のあとから「エンゲルス版第26章の最後の行までの部分は,すべて本文への注ないし雑録にあたると考えられる」とする。そこで「本文への注ないし雑録にあたる」ものを除いて考えると,本文は,第25章の上の引用文までと第27章から成り立っていることとなる。

これらの考察から「第25章の本文部分とこの第27主主部分とが内容的に明確に区別されるものであることを考え合わせるならば,第5章「5)」の総論ないし序論は,視角を異にする2つの部分,すなわち,その前半である第25章本文部分と,その後半である第27章部分とから成っているのだということができるであろう」とする。

そして,第25章本文部分が「信用制度という新たな対象についての表象を整理し, とりあえず信用制度とはどのようなものか を示すことである」のに対し,第27章は「そのような信用制度が資本主義的生産様式の発展のなかで果たす役割を述べている」。

この調査によって,第5篇の第25章から第27章までのマルクスの草稿の構成がだいたい理解できたといってよいだろう。

そのことを前提として,第27章の内容をもう少し具体的にみてみよう。

第27章では,信用制度が資本主義的生産様式に果たす役割として,

Ⅰ.利潤率均等化の媒介, Ⅱ 流通費の節約のニつを説明したあと, IIIで,株式会社の形成を説明している。

ここでの説明は,信用制度が株式会社の形成にいかなる役割を果たすかという観点から与えられているから,形成された株式会社という「社会資本」が, 「個人資本」というそれまでの資本形態といかに異なるものかを明らかにする。それは株式会社のポジティブな側面である。

その上で,それは信用制度が媒介するものであるから架空性をもったものであるにすぎないことを明らかにしようとしている。

だからこそ「生産規模の非常な拡張」といった株式会社形成の理由は最初に少し述べられているだけである。もしマルクスが株式会社論そのものをテーマにしていたら,株式会社形成の理由といった論点が中心になっていたかもしれない。

社会主義と株式会社といった問題を考える場合には,逆にこうしたマルクスの論が参考となるのではないだろうか。本稿で「資本論』のこの箇所を取り上げる理由もそこにある。

ところで,大谷によれば,第27章の内容はほぽマルクスの草稿と一致しており,第5篇のなかでも,エンゲルスによる加工が総体的に少ない部分に属している。したがって,ほぽ現行『資本論』を前提として,マルクスの株式会社論の検討を進めることができるだろう。

3. マルクスの株式会社論

マルクスの「株式会社の形成」の内容は,以下の3点に要約されよう。

1. 株式会社は「私的所有としての資本の廃止」である。それ故,それは,社会資本(直接に結合した諸個人の資本)という新しい形態であり,個人資本に対立する。

2. とはいえ,株式会社が資本主義的生産様式のなかであらわれるため,資本主義的な現象(独占,国家の干渉,金融ー貴族の再生産,寄生虫の再生産,投機や詐欺の再生産等)を生み出すこととなる。このあたりの叙述は,信用制度が持つ架空性を強調する第25章の本文部分と重なってくることとなる。

3. かくして,株式会社は,結合された生産者たちの直接的社会的所有 への必然的な通過点である。資本主義的生産様式のなかでは,そこに到達するものではないからこそ,最終的に,資本所有の廃止へと進む、あくまでも「潜在的」であるという規定が登場してくることとなる。

「私的所有としての資本の廃止」

まず,上述の1の論点からみてみよう。

マルクスが株式会社を社会資本という新しい形態であるという場合,<資本機能が資本所有から分離されている>ことがその中心的な論点となっている。いわゆる所有と経営の分離である。

個人資本では,資本所有と資本機能は一体化していたが,株式会社では,それが分離されている。といっても,分離された資本機能は,資本主義的生産様式である以上は当然結合された生産者たちの機能に転化していない。だからこそ,結合された生産者たちの直接的社会的所有へ到達していないことになる。

が,それがマルクスが扱う中心的な問題ではない。

ここでは,分離された資本所有の位置づけこそが問題である。それが,株式会社の下では,個々別々のものではなく,結合されたという意味で社会資本に転化している。

しかしながら,そこでは資本所有の意味 も変化してきている。というのは、資本所有者は単なる所有者,単なる貨幣資本家に転化するからである。そもそも,所有とは法律的な関係ではなく,誰が生産に関する決定を把握しているのかという問題 であったはずである。したがって,資本所有と資本機能が分離し,資本所有が配当を受け取るだけの関係に変化するならば、すなわち資本所有者が単なる貨幣資本家に転化するとすれば,それは資本所有の廃止なのである。

したがって,資本所有の廃止というのは,資本所有がなくなったという意味ではなく、たぶん所有の本来的な意味が喪失してしまっている という意味であろう。 (配当等を受け取る権利は,依然として保有しているのであるから)

これが1の論点でマルクスが主張したいことである。

「株式会社が生み出す資本主義的な現象」

それを受けて, 2の説明では,資本主義的生産様式の枠内での資本所有の変化は,ただ資本主義的なマイナス面を生み出すだけであると位置づける。

「株式会社は社会主義への必然的な通過点」

マルクスは, 3の論点では,到達すべきゴールを示しており,それは,結合された生産者たちの直接的社会的所有であり,そのためには,もう一方の資本機能の方が変化しなげればならない

マルクスは,この章の後半部分で,労働者たち自身の協同組合工場に言及している。そこでは、資本主義的株式企業も,協同組合工場と同じに,資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって,ただ,一方では対立が消極的に,他方では積極的に廃止されているだけである」としている。

おそらく資本所有の変化(不在地主化)は資本機能の変化(資本の集中)とセットで考えられていたのであろう。

以上のマルクスの議論をいわゆる「否定の否定」といった論理で説明すれば,次のようになるだろう。

個人資本の下では,資本所有と資本機能は一体化していた。株式会社の形成によって,そうした一体化が否定され,資本所有と資本機能は分離された。

それがもう一度否定されるとすれば,資本所有と資本機能は再び一体化することとなる。しかし,否定の否定は決して元の状態に戻ることを意味しない。資本機能は,結合された生産者たちの機能になっている。つまり,資本家の機能ではなく,働く者自身の機能に転化しているのである。

そして,資本所有も (たとえば協同組合の出資形態のように) 働く者自身の所有に転化しており,そこでは,株式会社のように資本所有と資本機能が分離された形態は当然止揚されていなければならない。

しかし,同時に,個人資本的な所有形態は止揚されていなければならないから,そこでは,株式会社が到達した社会資本的な所有形態が貫徹することとなる。以上のような意味で,以前より高い次元で資本所有と資本機能は一体化しているのである。

「株式会社はより高い次元で再び一体化するための一通過点にすぎない」というのはそういう意味だろう。


この後は「クーポン論」という独特の構想に入っていくが、私の関心からは外れるので省略する。「生産協同組合」論に関しては異論がある。


株式会社論の立論の大骨はこういうことだろうか。

1.資本所有が資本機能から分離される。いわゆる所有と経営の分離である。

2.分離された資本所有は、結合された諸資本という意味では、社会資本に転化している。しかし直接生産者からはますます遠ざかる。

3.資本所有者は“生きた”生産資本の所有者ではなく、単なる諸所有者,単なる貨幣資本家たちであり、配当を受け取るだけの寄生者となる。

4.この関係において、分離された資本所有は所有の本来的な意味が喪失し、“生きた”資本所有の性格を廃止されたことになる。

マルクスの信用論の一番わかりにくいところをうまく表現してくれていて説得力がある。しかし正解かどうかは分からない。

マルクスはわからないところを、こういう形でヘーゲル的表現で「自問」するかのように残していくことがある。いつも閉口させられるのだが、「こっちがわからないような表現は、マルクスもわかっていないのだ」と割りきって進むしかない。この頃はまだ株式会社そのものが端緒状態なのだ。


「資本所有の変化は資本機能の変化とセットで考えられていたのであろう」というくだりは同感する。

農地の問題と比べるとよく分かるのだが、資本所有の変化というのは地主の不在地主化だ。資本機能の変化というのは、土地の集中と農業の大規模化だ。マルクスの念頭にはコルホーズ的なものがあるのだろうが、はたしてそれが正しいのだろうか。いまだに解答が出ていない問題である。