大船遺跡 ネット探検

はずかしながら、まさか北海道にこれだけの文明があったとは知らなかった。とりあえず、ネットで当たれる限りの資料にあたってみることにする。

どんな遺跡か

驚いた。ウィキペディアに大船遺跡の項目がないのだ。ちょっとホッとする。「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の項目はあるが、とりあえず後回しにする。とにかくやたらと関連サイトがあるのだ。

コトバンクの説明から入る。

縄文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前2,000年頃)の大規模な集落遺跡である。

大船川左岸の標高45m前後の広い段丘上に形成されている。南東側に100棟以上の竪穴住居、南西の山側には土坑群が広がる。

1996年(平成8)に町営墓地の造成にともなう発掘調査で大規模な集落跡が確認された。

ますます安心した。私は80年代までの函館しか知らないから、知識がなくても当然なのだ。

どこにあるのか

函館市と言っても、ずいぶん離れていて、以前は南茅部町と言っていた。昆布とりの漁民が狭い海岸線にへばりつくようにして暮らしている。

道南勤医協が熱心に漁民検診をやったため、勤医協フアンが多い。協力会の寄り合いで話したこともある。

次が函館市のホームページ

ここにはちょっとホッとするような地図がある。

大船遺跡マップ_H28.png

普通は南茅部線で川汲(かっくみ)に出るのだが、豊崎線という道路もあるらしい。

川汲という集落に町役場があり、温泉もある。国道278号線に突き当たって左に曲がると安浦があって、次が臼尻で、ちょっとした市街を形成している。そこから先、短いトンネルを抜けた豊崎というところで道道函館豊崎線が合流する。そこから大舟川を渡ると大船地区になる。

しばらく行くと道路の山側に大船小学校があり、そこの角を曲がるとすぐに上り坂となる。標高45メートルというから結構な上りだ。内浦湾沿いの海岸は大抵が段丘になっていて、登り切るといきなり視界がひらける。

下の写真が航空写真なのだが、どうも見通しが悪い。

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真ん中の白っぽい平地に目が行くが、これは遺跡ではない。その手前の黒っぽい四角が遺跡だ。その左上が青い屋根と白いグラウンドの大船小学校だ。

「人」の字型になった道路の右足が道道函館豊崎線。白っぽい平地は臼尻中学校のグラウンド、その右が校舎だ。なお臼尻中学というが臼尻町にあるわけではなく、ここは豊崎町になると思う。

「人」の字の頭がぶつかるところが臼尻漁港。山に隠れて見えないが海岸沿いに278が伸びていって、画面上一番右側に海が入るところが川汲だ。その途中の小さなササクレが安浦の漁港。

バイパスは画面中央右端にちらっと見える。その辺りが臼尻小学校と垣ノ島遺跡だろう。

どこがすごいのか

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まず、この写真で度肝を抜かれる。深さ2.4メートルだそうだ。8つの柱穴の直径もすごい。これだと地上3~4階、地下一階のビルが容易に建つ。

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この写真も、よく見るとすごい。上の写真のような建物が所狭しと立ち並んでいるのだ。全部で100棟を超えるという。ほとんど丸の内のビル街ではないか。

この建物の建造年は紀元前2500~2000年、つまり4000年以上前なのだ。

10年ほど前、我々は吉野ケ里の遺跡発見で驚いたものだが、大船遺跡はそれよりさらに2000年を遡る。我々が吉野ケ里を見る目で吉野ケ里の人は大船に思いを致すことになるわけだ。(ただ、正直、年代については素直には信用出来ない)

なぜ標高45メートルか

遺跡で見つかった食糧はサケ・タラ・マグロなどの魚類をはじめウニ・カキ・オットセイ・クジラといった海産物や,クリ・クルミ・トチ・ブドウといった植物種子などということだ。

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 出土したクジラの椎骨(体長15mのクジラのもの)

中でも目を引くのはクジラだろう。どうやって捕ったのか。「マンモスハンターとしての血だろう」といわれているが、その時代からはすでに1万年を過ぎている。人間の血などせいぜい2,3代だろう。

それよりもクジラをなぜ、どうやって山の上まで運んだのだろうという疑問がある。45メートルは結構高い。

縄文人同士の敵対があったのだろうか、温暖な気候により海進があったのだろうか、その後の地殻変動で隆起したのだろうか。

3つの可能性を上げたが、いずれも決定力に欠ける。

南茅部がすごい

isekimap2.gif大船遺跡だけではなく、南茅部そのものが遺跡の村だ。今までに92ヶ所の遺跡が確認され、出土遺物は400万点を超えているそうだ。

南茅部が縄文文化の一大中心地であったことは間違いなく、遺跡の年代も数千年に渡っている。

もちろんあの国宝の中空土偶もある。これは川汲から右に曲がってしばらく行った尾札部集落近くの著保内遺跡から出土したもので、高さが41センチもある。焼き物技術の確かさがしのばれる。(昭和50年、尾札部の小板アエさんが農作業中に偶然発見した。道の駅隣の縄文文化交流センターにホンモノが常設展示されているそうだが、正直やばくないのか?)

また出土品からは黒部の翡翠、秋田のピッチが見つかっており、少なくとも東日本各地との交易があったことが伺える。