ユートピアとディストピアというのは親戚筋みたいなところがあって、二項対立図式を持ち込まれるみたいなところがあるから、遊民的人物にはどちらも住みにくさでは似たところがあるかもしれない。

世の中には三種類の人間が居るのであって、一つはまじめに額に汗して働く人々、一つは彼らを搾取し贅沢をしている人々、そしてもう一つは搾取も贅沢もしていないが、さりとてまじめに働いているわけでもないキリギリスみたいな連中である。

私は第Ⅰ人種に属していると思うが、根はぐうたらである。搾取をしようとは思わないが贅沢はしたい。

考えてみれば学生時代、長い夏休み、それなりの冬休み、変に長い春休みを何をして過ごしたか、とんと記憶が無い。

バイトをしたわけでもないし、大旅行をしたわけでもないし、部活に情熱を燃やしたというわけでもない。長い本を読もうと思った記憶はあるが読み通した記憶はない。

穀潰しの非国民だ。

そういう人間は、「ユートピアが実現するとすごく良いな」とは思わないだろう。「流した汗が報われると良いな」とは思うが、できれば汗を流さずに良い暮らしをしたい。

そういう人間の理想郷はユートピアではなくて「桃源郷」かもしれない。しかしそれではあまりに現実逃避だ。引きこもりの世界だ。

一番近いのは「酒池肉林」とか「放蕩三昧」という世界だろうが、もうじき古希という歳になると体がついて行かない。

そうなるとそこそこの心地良い対人関係というのが一番大事なことに思えてくる。むかし日本がまだ豊かだった頃、「豊かさとは何か」という本がずいぶん売れた。

その頃私が考えたのは「欲求の豊かさ」が真の豊かさではないかということだった。そして欲求の豊かさは「人間関係の豊かさ」によって規定されるということだ。

途上国ではそうは行かないだろう。そのような余裕はない。だから「ユートピア実現」の夢は即物的かつ原理主義的色彩を帯びてくる。

トマス・モアのユートピアは自給自足に近い。「食っていければ幸せ」みたいなレベルでの理想郷だとすれば、それは我々の目指す理想郷ではないだろう。