ということで、非常に評価の難しい発言である。

ただ従来の我々の紋切り型ストーリーに厳しい、説得力に富んだ反論を行っていることは間違いない。

1.レーニン・スターリンが間違っていたからソ連は崩壊したのか?

2.計画・統制経済が間違っていたからソ連は崩壊したのか?

3.1と2を丸呑みしたうえで、「マルクス主義はそれとは別だ」と澄ましていられるのか?

中村さんはこの3つの設問に対して、いずれも「ノー」を突きつけている。

「ノー」というのはいささか不正確かもしれない。ただ長年研究の現場にいた人間として、そのような皮相な発言は許せないのである。

ソ連はユートピアだった?

議論としてはまず3.から入ったほうが分かりやすいかもしれない。

我々が今掲げているスローガンは「国民が主人公」の日本である。

言葉はどんどん変わっていくので、ニュアンスのズレはあるかもしれないが、20世紀の初頭において「国民」とは労働者・農民であった。

それから百年を経た今でも、「国民が主人公の国」というのは我々にとって「ユートピア」である。それが100年前のロシアにおいて現実のものとなったのだ。

ソ連においてはそれが結果的に「ディストピア」に変わってしまったのであるが、それは人類史の長い道のりの中で考えればひとつの挫折に過ぎない。次には同じ間違いを繰り返さないように教訓化することが一番大事なことである。

1万年の人類の歴史の中で、とにもかくにも資本主義に代わるものを(可能態として)生み出すまでに成長した人類の到達を、我々はまず評価すべきなのかもしれない。

ソ連がユートピアだったことは一度もなかった

ソ連は「国民が主人公」という理想を実現したユートピアではあったが、その現実の姿において「ユートピア」であったことはただの一度もなかった。客観的にはむしろもっとも不幸な国で在り続けた。「ユートピア」(社会主義の祖国)であるがゆえに絶えず列強に苦しめられ続け、第2次大戦では数千万の犠牲者を出した。

その結果成立したのが、スターリニズム国家という奇形的社会であり、その形態においてかろうじて生存を許された。そのようにしてかろうじて許された生存に何らかの意味があったのか、それが問われている。

ソ連がユートピアを目指したという歴史的事実は消せない

そして中村さんは、少なくとも人類史的には意味があったと考えている。

なぜならソ連がユートピアを目指し、人類史上初めて、その一歩を踏み出そうとしたことは間違いないからだ。

ソ連の失敗は対岸の火事ではない

以上から出てくる結論は、「ソ連の失敗は対岸の火事ではない」ということだ。

「国民が主人公」の政治を目指す世界の人々にとって、ソ連は兄貴分と見るべきではないか、と中村さんは問うている。「巨悪の崩壊、バンザイ」では済まされないと思うし、済ますべきではないと思う。

ただし、「方法」が間違っていたから失敗してしまった。しかもその間違いはボルシェビキとメンシェビキの分裂に遡る、というのが中村さんの見立てだが、それに関しては2.と関わるので留保しておく。

つまり、一方においてはロシア革命とソ連の歩みを社会発展の歴史の一コマとして突き放してみることである。そして倫理とか審問の対象とせず、余分な肩入れしないで没価値的に検討する姿勢だ。

一方においては人類社会を一歩前に進めようとした貴重な試みとして、主体的に評価する構えの必要を訴えているのだろうと思う。科学の目と変革主体の目の複眼で見る、この主張には納得させられるものがある。

それにしても大変重い問いかけです。