結局、前項で紹介した文章は、「自然主義論争」という議論を踏まえないとわからないようだ。

まずは、例によって年表化してみる。題して「自然主義論争史 年表」ということになるか。

1880年 ゾラの『実験小説論』が発表される。生理学者ベルナールの『実験医学序説』をそのまま文学の理論に適用した。

1885年(明治18年) 坪内逍遥が小説神髄を発表。「芸術であるためには、小説は写実的でなければならない。人間とその心理を写実的に描くべき」と主張。

1886年 二葉亭四迷が『小説総論』を発表。翌年には「浮雲」を発表。

1889年(明治22年) 森鴎外、「小説論」にてゾラの自然主義を紹介。その意気込みは評価するも作品そのものは評価せず。その上で坪内逍遙をゾラのそれとは別物の、「ありのまま主義」だと批判。没却理想など意味ありげな概念語を無限定に駆使する逍遥をクソミソにする。

1895年(明治28年) 田岡嶺雲が「下流細民と文士」や「小説と社会の隠微」で硯友社文学を批判。「富む者は彌々富み、貧き者は彌々貧す」社会の中で貧しい人間の苦しみを代弁することによって醜悪な現実を是正することを文学の目的と規定した。

高山樗牛はこれに抗して国民文学論を唱える。「社会生活は多数劣者の幸福を犠牲にするに非ざれば、其進歩の過程を継続する能はざる」という露骨な開き直り。

1900年(明治33年) 鴎外、『審美新説』の中でゾラ以降の自然主義の動向を紹介。運動を二期に分け、前期は客観に偏して枯淡に傾き、後期は逆に主観に傾き、深秘・象徴の趣を呈したとする。(鴎外にしてみれば、抱月など一知半解、笑止千万であったろう)

1901年(明治34年) 田山花袋が「作者の主観」を発表。写実の奥に「大自然の主観」がなければならぬと主張。正宗白鳥との間に「主観・客観論争」が交わされる。

1902年(明治35年) 長谷川天渓、「論理的遊戯を排す」を発表。抱月とともに自然主義擁護の論陣を張る。

木下杢太郎、「太陽記者長谷川天渓氏に問ふ」で、「理想は動力である。故に理想は決して夢幻ではない」と主張。

永井荷風がゾラの『実験小説論』を紹介。森鴎外の客観的紹介とは異なり、人間の動物性の一面にふれて、「暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事実を憚りなく活写せんと欲す」と述べる。

1902年(明治35年) 小杉天外、田山花袋、永井荷風らがゾラの手法をまねた作品を相次いで発表。強い自我意識が独自の芸風を作り上げる。

1904年(明治37年) 田山花袋、「露骨なる描写」を発表。「何事をも隠さない大胆な露骨な描写」を主張。

1906年(明治39年) 洋行から戻った島村抱月、『囚はれたる文芸』を発表。自然主義の理論的指導者となるゾラの文学を智に偏した「囚はれた文芸」と名づける。「フランスの自然主義は知に囚われた文芸」であり、我々の目指すは「正しく日本的文芸の発揮といふことならんか。時は国興り、国民的自覚生ずるの秋なり」という雑然ぶり。

田中王堂が抱月を批判。主体の問題抜きに客観は語れないと批判。「自然主義を弁護し且つ鼓吹するが、自然主義を囚はれたる文芸と見るのか、放たれたる文芸と見るのか」を問う。

1906年(明治39年) 天渓が「幻滅時代の芸術」を発表。現実への判断を排し、ただ傍観的態度で無理想・無解決に客観」すること。これにより「あらゆる幻想・虚飾がはぎとられ、現実が暴露されたとき、真実其の物に基礎を定めた無飾芸術が生まれる」とする。

1906年(明治39年) 島崎藤村の『破戒』が発表される。抱月は「破壊」を自然主義文学の範とし、この作によって日本の自然主義運動を前期と後期とに分かつ。

1907年 田山花袋の『布団』が発表される。『布団』は私小説の出発点ともされる。

1908年(明治41年) 自然主義は社会の秩序を破壊する危険思想として排撃される。抱月は自然主義に観照の立場を持ち込み、傍観的態度に徹するよう提唱。このあと運動としての自然主義は衰退。

私小説を中核とする「純文学」の世界が成立。自然主義派の作者の多くが移動する。


1908年(明治41年)

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。

1909年

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

1910年(明治43年)

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

5月25日 「明科事件」で宮下、新村らが逮捕される。

5月31日 検事総長、明科事件が大逆罪に該当すると判断。社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月1日 秋水、管野らが湯河原で逮捕される。

6月 啄木、評論「所謂今度の事」を執筆(未発表) この頃から堅気になった啄木は、仕事柄事件を比較的知りうる立場にいた。

8月9日 魚住折蘆、朝日新聞に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月 朝日新聞に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月10日 大審院第1回公判(非公開)

12月 啄木、歌集「一握の砂」を発表。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年(明治44年)

1月18日 大逆事件の判決。死刑24名、有期刑2名。

1月24日 幸徳秋水ら11名が処刑。

1月 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修から詳細な経緯を聞く。

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
 我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。

3月 木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

1912年(明治45年)

4月13日 石川啄木が病死。